たとえば、こんな場面を想像してみてください。
知的障害のある30代の男性が、自宅で倒れて救急搬送された。意識はもうろうとしている。付き添いの家族もいない。救急隊員が「何かお薬を飲んでいますか?」と尋ねても、本人はうまく答えられない。搬送先の病院では、アレルギーの有無も、服用中の薬も、過去の手術歴もわからないまま、治療方針を決めなければならない——。
こうした場面は、決して珍しいことではありません。厚生労働省の調査によれば、知的障害のある人は全国に約109万人。そのうち在宅で暮らす人は約96万人にのぼります。日常的に複数の医療機関を受診している人も多く、情報が分散しがちです。「あの病院ではこの薬を出していた」「こちらの施設ではこんなアレルギーがあると聞いていた」——そうした断片的な情報が、いざというときに一つにつながらない。それは、命に関わる問題です。
いま、デジタル庁が進めている「標準型電子カルテ」の導入は、こうした医療情報の分断を解消する大きな一歩になるかもしれません。しかし同時に、「つながる」ことで生まれる新たなリスクにも、私たちは目を向ける必要があります。
標準型電子カルテとは何か——「つながる」ことで変わる医療
まず、標準型電子カルテの仕組みを整理しておきましょう。
現在、日本の病院における電子カルテの普及率は約6割(一般病院、令和5年時点)。一見するとかなり進んでいるように見えますが、問題は「それぞれの電子カルテがバラバラ」であることです。病院ごとに異なるメーカーのシステムを使っているため、A病院で記録した情報をB病院がそのまま読み取ることは、多くの場合できません。電子カルテが「電子的な紙カルテ」にとどまっている、と指摘されるゆえんです。
デジタル庁が令和8年度(2026年度)からの導入を目指す標準型電子カルテは、この壁を壊すことを目的としています。共通の規格(HL7 FHIRなど)を用いることで、医療機関同士、さらには薬局や自治体との間で、患者の基本情報・病歴・アレルギー・処方薬などをリアルタイムで共有できるようになります。開発には数百億円規模の予算が見込まれており、まずはクラウドベースのシステムを公的医療機関から段階的に展開する方針です。
これが実現すると、冒頭の場面はこう変わるかもしれません。
救急搬送された男性のマイナンバーカード(または保険証情報)を読み取ると、かかりつけ医が記録した服薬情報、過去のアレルギー反応の記録、てんかんの既往歴——そうした情報が、搬送先の医師の画面に表示される。「この薬は使えない」「この持病に注意が必要」という判断が、数分で可能になる。
障害のある人にとって、これは「便利になる」という次元の話ではありません。自分の言葉で伝えられないとき、代わりに「情報」が自分を守ってくれる——そういう仕組みです。
「つながる」ことのリスク——誰が、何を、どこまで見るのか
けれど、ここで立ち止まって考えたいことがあります。
医療情報が「つながる」ということは、裏を返せば、これまで分散していたからこそ守られていた情報が、一カ所に集約されるということです。そして、集約された情報は、アクセスできる人が増えるほど、漏洩や目的外利用のリスクも高まります。
特に障害のある人の医療情報には、精神科の受診歴、行動障害の記録、服薬内容など、社会的な偏見と結びつきやすい情報が含まれることがあります。こうした情報が、本人の知らないところで、本人の意図しない形で共有されたとき——たとえば就労先に伝わったとき、保険加入の審査に影響したとき——その人の暮らしは大きく揺らぎます。
「でも、匿名化すれば大丈夫でしょう?」と思う方もいるかもしれません。
実は今、この「匿名化」をめぐる議論も大きく動いています。次世代医療基盤法(2018年施行)の改正により、従来の「匿名加工医療情報」に加えて、「仮名加工医療情報」の活用が2024年から可能になりました。仮名加工とは、氏名や住所を削除する一方で、年齢・性別・病歴などの組み合わせは残す手法です。研究や政策立案には有用ですが、情報の組み合わせ次第では個人が特定されうるリスクが残ります。
とりわけ、障害のある人の場合、地域の中で「あの障害があって、あの年齢で、あの薬を飲んでいる人」といえば、かなり絞り込まれてしまうことがあります。人口の少ない地域ではなおさらです。匿名化の「精度」が、都市部と地方で異なるという問題は、まだ十分に議論されていません。
「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」
障害者権利条約の合言葉として知られる「Nothing About Us Without Us(私たちのことを、私たち抜きに決めないで)」。この原則は、医療情報の扱いにおいても、まっすぐに当てはまります。
現在の制度設計の議論を見ると、電子カルテの標準化も、匿名加工医療情報の法改正も、その検討の場に障害当事者が十分に参加しているとは言いがたい状況です。デジタル庁の検討会の構成員名簿を見ても、医療情報の専門家やIT技術者が中心で、障害当事者団体の代表が入っているケースはごくわずかです。
しかし、考えてみてください。自分の医療情報が、自分の知らない場所で、自分の知らない人に、自分の知らない目的で使われるかもしれない——そのことに不安を感じない人がいるでしょうか。まして、情報の意味を自分で確認することが難しい知的障害のある人や、意思表示に支援が必要な人にとって、「同意」のプロセスそのものが大きなハードルになります。
本人に代わって家族や成年後見人が同意する場合もありますが、「本人の意思」と「代理人の判断」は必ずしも一致しません。意思決定支援の仕組みとセットで、医療情報の共有範囲を本人が選べる設計——たとえば「救急時にはすべて共有するが、研究利用はしない」といった段階的な同意の仕組み——が求められます。
海外の事例から考える——エストニアとイギリスの教訓
海外に目を向けると、医療情報の電子化で先行する国々の経験から学べることがあります。
エストニアは、国民IDと紐づけた電子医療記録システム(e-Health)を2008年から運用しています。患者自身がオンラインで自分の医療記録を確認でき、「誰が自分の情報にアクセスしたか」のログも閲覧可能です。つまり、情報の透明性を本人に担保する設計になっています。
一方、イギリスでは、NHS(国民保健サービス)が2013年に「care.data」という医療データ共有プログラムを開始しましたが、患者への説明不足やオプトアウト(利用拒否)の手続きの煩雑さが批判を浴び、2016年に事実上廃止されました。「良い目的のために集めたデータでも、本人の信頼なしには成り立たない」という教訓を残した事例です。
日本がこれから標準型電子カルテを導入するにあたって、エストニアの「本人が自分の情報を見守れる仕組み」と、イギリスの「信頼を失えばシステムごと崩壊する」という教訓の両方を、しっかり受け止める必要があります。
そして、日本独自の課題として忘れてはならないのは、デジタルへのアクセスそのものに障壁がある人がいるということです。視覚障害のある人がログ画面を確認できるのか。知的障害のある人が同意画面の意味を理解できるのか。アクセシビリティの確保は、システム設計の「おまけ」ではなく、根幹に置かれるべきものです。
今後の注目ポイント——私たちが見ておくべきこと

最後に、この問題について今後注目しておきたいポイントを整理します。
1. 令和8年度の標準型電子カルテ導入スケジュールと対象範囲
まずは公的医療機関から導入が始まる見通しですが、障害者支援施設や療育機関との連携がどこまで含まれるかは未確定です。「病院の中だけの情報連携」にとどまれば、障害のある人の暮らし全体を支える仕組みにはなりません。
2. 仮名加工医療情報の利用実態と監視体制
法改正で可能になった仮名加工医療情報の活用が、実際にどのような研究や政策に使われているのか。第三者機関による監視と、定期的な情報公開が不可欠です。
3. 意思決定支援と「同意」の仕組みづくり
医療情報の共有について、本人が理解し、選択できるための支援のあり方。わかりやすい説明資料の整備、意思決定支援者の関与、段階的同意の設計など、具体的な仕組みの議論が始まることを期待します。
4. 検討の場への当事者参加
デジタル庁や厚生労働省の検討会に、障害当事者やその家族、現場の支援者がどれだけ参加できるか。「専門家だけで決めて、あとから説明する」では、イギリスの二の舞になりかねません。
おわりに——「情報がつながる」ことが、「人がつながる」ことであるために
電子カルテの標準化は、技術の話であると同時に、「その人の情報は誰のものか」という、とても人間的な問いを私たちに突きつけています。
私がかつて障害者支援施設で働いていたとき、利用者さんの通院に付き添うたびに、分厚いファイルを抱えて病院に行っていました。「この方はこういう障害があって、こういう薬を飲んでいて、こういうことが苦手で——」と、毎回一から説明する。それでも伝わらないことがあって、悔しい思いをしたことが何度もあります。
だから、医療情報がつながること自体は、本当に大切なことだと思っています。あの頃の「伝わらなさ」を、テクノロジーが埋めてくれるなら、それは歓迎すべきことです。
でも、その「つながり」が、本人の知らないところで、本人を置き去りにして進んでしまうなら、それは「つながり」ではなく「管理」になってしまう。
医療情報がつながる日が来るなら、それは「あの人の朝が少し安心になる日」であってほしい。そのために、いま議論の入り口に立っている私たちにできることは、「誰のための情報連携なのか」を問い続けることではないでしょうか。
知らなかったこの問題を、今日知ったあなたへ。ぜひ、隣の誰かにも話してみてください。
参照元(出典)
- 標準型電子カルテ導入版の設計・開発業務において、令和8年度のプロダクトワーキンググループ構成員の募集を開始しました(digital.go.jp)
- 自治体・医療機関等をつなぐ情報連携システム(Public Medical Hub:PMH)に係る「先行実施事業の実施状況」、「医療機関・薬局システムベンダー向けの情報」を更新しました(digital.go.jp)
- 医療分野の研究開発に資するための匿名加工医療情報及び仮名加工医療情報に関する法律施行令の一部を改正する政令案に関する御意見の募集について(public-comment.e-gov.go.jp)
- 第28回 健康・医療・介護情報利活用検討会 医療等情報利活用ワーキンググループ(令和8年3月12日開催)(wam.go.jp)
- 第154回 社会保障審議会障害者部会・第18回 こども家庭審議会障害児支援部会 合同会議(令和8年1月19日開催)(wam.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。