
電話1本かけられないということ
病院に予約の電話をする。薬局に処方箋の相談をする。役所に問い合わせをする。多くの人にとって、それは日常の「ちょっとした用事」です。でも、聴覚障害のある人にとって、電話1本は「ちょっとした用事」ではありません。
日本には、聴覚・言語障害のある人が約34万人います(厚生労働省「生活のしづらさなどに関する調査」)。電話リレーサービスが2021年に公共インフラとして開始され、手話通訳オペレーターや文字通訳オペレーターを介して電話ができるようになりました。制度としては大きな一歩です。
しかし、いま「聴覚障害者等による電話の利用の円滑化に関する基本的な方針」の改正に向けたパブリックコメントが行われているということは、まだ課題が残っているということでもあります。そして同時に進む電子処方箋の普及は、「デジタル化すれば便利になる」という前提そのものを問い直す機会を私たちに与えています。
電話リレーサービスの「使われ方」を見る
電話リレーサービスは、日本財団電話リレーサービス(JTRS)が提供しています。2023年度の利用件数は年間約25万件。登録者数は約1万5千人程度と報告されています。聴覚障害者34万人のうち、登録しているのは約4〜5%にとどまる計算です。
なぜ利用が広がらないのか。いくつかの要因が考えられます。
まず、サービスの認知度の問題です。特に高齢の聴覚障害者のなかには、電話リレーサービスの存在自体を知らない人がいます。情報がウェブサイトやSNSで発信されていても、そもそもデジタル機器に不慣れな人には届きません。
次に、利用のハードルです。電話リレーサービスを使うには、スマートフォンやパソコンが必要です。アプリをダウンロードし、登録手続きを行い、ビデオ通話ができる環境を整える。この「準備」の段階で諦めてしまう人がいます。
そして、心理的な壁もあります。「オペレーターを介して話すのは恥ずかしい」「プライベートな内容を第三者に聞かれたくない」という声は少なくありません。医療機関への問い合わせなど、個人情報に関わる通話では、この心理的な抵抗はさらに大きくなります。
今回のパブリックコメントでは、こうした課題にどう対応するかが問われています。サービスの質の向上、利用時間の拡大、認知度の向上、そしてプライバシーへの配慮。制度を「つくった」だけでは足りない。「届ける」ところまでが制度設計です。
電子処方箋が生む新しい「つながれなさ」
一方、医療分野ではデジタル化が急速に進んでいます。電子処方箋は、紙の処方箋をデジタル化し、医療機関と薬局の間で処方情報を電子的にやりとりする仕組みです。患者にとっては、処方箋を持ち歩く必要がなくなり、重複投薬のチェックも容易になるなど、メリットがあります。
厚生労働省は電子処方箋の普及を推進しており、対応する医療機関・薬局は増加傾向にあります。しかし、ここで見落とされがちなのが、「デジタル化の恩恵を受けられない人」の存在です。
聴覚障害のある人が新しい薬について薬剤師に質問したいとき、どうすればいいでしょうか。対面であれば筆談ができます。でも、オンライン服薬指導が広がるなかで、音声通話しか対応していないシステムでは、聴覚障害のある人は参加できません。チャット機能やビデオ通話(手話対応)があるシステムでなければ、デジタル化はむしろバリアを高めることになります。
電子処方箋そのものは「見える情報」なので、聴覚障害のある人にとって親和性が高いはずです。問題は、その周辺にあるコミュニケーション——医師の説明、薬剤師の指導、問い合わせの電話——が音声前提で設計されていることです。デジタル化を進めるなら、「誰のためのデジタル化か」を常に問い続ける必要があります。
欧州の意思疎通支援から学ぶこと

欧州では、聴覚障害者の情報アクセシビリティに関する取り組みが進んでいます。
スウェーデンでは、すべての公的機関に手話通訳を利用できる権利が法律で保障されています。医療機関を受診する際も、事前に予約すれば手話通訳者が同行します。費用は公費負担です。日本でも意思疎通支援事業として手話通訳の派遣制度がありますが、利用できる場面や時間に制約があり、「急に体調が悪くなったとき」に即座に対応できるとは限りません。
フィンランドでは、医療機関のウェブサイトや患者向けポータルサイトが、手話動画やイージーリード(わかりやすい文章)で情報提供されています。処方箋の内容や服薬の注意点が、テキストだけでなく視覚的にわかりやすい形で提供されているのです。
イギリスのNHS(国民保健サービス)では、「Accessible Information Standard」という基準があり、すべての医療機関が患者のコミュニケーションニーズを把握し、適切な形式で情報を提供することが義務づけられています。
これらの事例を日本に持ってくるなら、何が必要でしょうか。まず、医療機関における情報アクセシビリティの基準を明確にすること。次に、電子処方箋システムに手話対応のビデオ通話機能やチャット機能を標準搭載すること。そして、電話リレーサービスと医療機関をつなぐ連携の仕組みを構築すること。技術的には可能なことばかりです。足りないのは技術ではなく、「最初から全員を想定して設計する」という発想です。
「つながる」を当たり前にするために
電話リレーサービスの改善も、電子処方箋のアクセシビリティ確保も、根っこにある問いは同じです。「つながる」のスタートラインは、本当にみんな同じ場所にあるのか。
聴覚障害のある人にとって、「電話ができる」ことは特別な恩恵ではなく、聴こえる人と同じ権利です。「処方箋の説明を理解できる」ことも、特別な配慮ではなく、患者としての当然の権利です。
パブリックコメントの締切は迫っています。「自分には関係ない」と思う人が多いかもしれません。でも、想像してみてください。もし明日、あなたが突然聴こえなくなったら。病院に電話できますか。薬の説明を理解できますか。
「つながれない」経験を想像することが、制度を変える力になります。パブリックコメントに意見を書くことは、誰にでもできる小さな一歩です。その一歩が、誰かの「つながる」を少しだけ近づけるかもしれません。
スタートラインを揃えることは、誰かに特別な優遇を与えることではありません。全員が同じ場所から走り始められるようにすること。それだけのことが、まだ実現できていない。だからこそ、今このタイミングで声を上げることに意味があるのだと思います。
参照元(出典)
- 聴覚障害者等による電話の利用の円滑化に関する基本的な方針の一部改正案に関する意見募集(public-comment.e-gov.go.jp)
- 電子処方箋の導入状況に関するダッシュボードを更新しました(digital.go.jp)
- 第8回 電子処方箋等検討ワーキンググループ(令和7年12月23日開催)(wam.go.jp)
- ICTの活用等による意思疎通支援|厚生労働省(mhlw.go.jp)
- 障害者の情報・意思疎通支援|厚生労働省(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。