目が覚めると腰が重い。指がこわばって、ボタンがうまく留められない。それでも家を出て、電車に乗り、職場へ向かう──。筋骨格系(MSK)の痛みや慢性疾患を抱えながら働いている人は、私たちの想像以上に多い。そしてその中には、「障害者」として制度の対象になる人もいれば、どの制度の網にもかからないまま、自力で踏ん張っている人もいる。
NHKが障害者就労について実施したアンケート調査と、英国政府が2025年5月に打ち出したMSK患者への就業支援策。この二つを並べて読むと、「働く」と「痛み」の交差点に立つ人たちへの支援が、日本ではまだ大きな空白地帯であることが見えてくる。
NHKアンケートが映し出す「働きたいのに」の声
NHKが障害のある人を対象に実施した就労に関するアンケートでは、回答者の多くが「働きたい気持ちはあるが、体調や痛みの波があり、継続が難しい」と答えている。特に注目すべきは、身体障害や難病を抱える回答者から「痛みのコントロールができないことが、就労継続の最大の壁になっている」という声が繰り返し寄せられている点だ。
ここで大切なのは、「痛み」は外から見えにくいということ。車椅子を使っていれば周囲も配慮しやすいが、慢性的な関節痛や線維筋痛症、脊椎の疾患などは、見た目には分かりにくい。職場で「今日は調子が悪いので」と言っても、「さぼっているのでは」と受け取られてしまう。そのすれ違いが積み重なり、やがて本人が「もう無理だ」と職場を去る。NHKのアンケートからは、そうした静かな離職のプロセスが浮かび上がってくる。
日本の障害者雇用促進法は、企業に対して法定雇用率(2024年4月から民間企業は2.5%)の達成を求めている。厚生労働省の発表によれば、2024年6月時点の実雇用率は2.33%で過去最高を更新した。数字だけ見れば前進している。しかし、雇用率の計算に含まれるのは障害者手帳を持つ人が中心であり、手帳を持たない慢性疾患の人や、痛みが主症状である難病患者の多くは、この枠組みの外にいる。「雇用率が上がった」というニュースの陰に、カウントすらされない人たちがいる。その事実を、私たちは忘れてはいけない。
英国が動いた──MSK患者への「迅速ケア+就業支援」一体モデル
一方、英国では2025年5月、政府がMSK(筋骨格系)疾患を抱える人々への新たな支援策を発表した。背景にあるのは、英国で深刻化する「健康関連の経済的非活動(health-related economic inactivity)」の問題だ。英国では約280万人が健康上の理由で労働市場から離れており、その主要因の一つがMSK疾患とされている。腰痛、関節炎、慢性的な筋肉の痛み──これらは命に直結しないがゆえに後回しにされがちだが、働けなくなることで本人の生活も、社会全体の経済も大きな打撃を受ける。
英国の新政策の柱は、大きく二つある。
第一に、診断と治療の迅速化。MSK疾患は、適切な治療介入が遅れるほど慢性化し、職場復帰が難しくなる。英国政府はNHS(国民保健サービス)と連携し、MSK患者が症状を訴えてから専門的なケアにつながるまでの待機時間を短縮する方針を打ち出した。理学療法や疼痛管理プログラムへの早期アクセスを確保することで、「痛みを我慢して悪化させ、結局働けなくなる」という悪循環を断ち切ろうとしている。
第二に、医療と就業支援の一体提供。治療だけで終わらせず、職場復帰に向けたサポートを医療の延長線上に位置づける。具体的には、職業リハビリテーションの専門家が治療チームに加わり、「どんな働き方なら可能か」「職場にどんな配慮を求めればよいか」を一緒に考える。医療と就労支援が別々の窓口で動く従来のモデルとは、根本的に発想が異なる。
この政策が注目に値するのは、「痛みがあっても働ける」ではなく、「痛みを適切にケアしながら、その人に合った働き方を一緒に見つける」という姿勢が明確な点だ。痛みを根性で乗り越えろという話ではない。痛みと共に生きる現実を認めたうえで、社会の側が仕組みを変えるという宣言でもある。
日本に持ってくるなら──何が足りないのか

英国のモデルを日本にそのまま移植することはできない。医療制度も雇用慣行も違う。しかし、日本の現状を見渡すと、いくつかの構造的な課題が浮かぶ。
1. 医療と就労支援の「断絶」
日本では、痛みの治療は整形外科やペインクリニックで、就労支援はハローワークや就労移行支援事業所で、それぞれ別の場所で行われている。両者をつなぐ仕組みは乏しい。主治医に「働けますか」と聞いても、「無理しないでください」という曖昧な回答が返ってくることが多い。医師は職場環境を知らないし、就労支援員は医学的な判断ができない。この断絶が、「痛みがあるから働けない」と「働きたいのに支援がない」の間に深い溝をつくっている。
2. 「障害者手帳」の壁
日本の障害者就労支援の多くは、障害者手帳の所持を前提としている。しかし、慢性疼痛や一部のMSK疾患は、手帳の対象にならないケースが少なくない。難病患者についても、指定難病の対象であれば医療費助成は受けられるが、就労支援との連動は限定的だ。厚生労働省の一般職業紹介状況を見ても、「難病患者」や「慢性疼痛を抱える求職者」という分類での統計は整備されておらず、そもそも実態が見えにくい。見えないものは、政策の俎上に載りにくい。
3. 「フルタイムか、離職か」の二択構造
日本の雇用慣行は、フルタイムで毎日出勤することを「普通」とする前提が根強い。痛みの波がある人にとって、「今日は午後から」「今週は在宅で」という柔軟性が命綱になるが、そうした働き方が認められる職場はまだ少数派だ。英国の新政策が「その人に合った働き方」を支援の中心に据えているのは、この硬直性への処方箋でもある。
「あの人の生活」を想像する
制度の話をしていると、つい数字や法律の条文に目が行きがちになる。でも、私がいつも考えるのは、「この制度が変わったら、あの人の生活はどう変わるだろう」ということだ。
たとえば、腰椎椎間板ヘルニアを抱えながら事務職として働いていた40代の女性。痛みが悪化して休職し、復帰のめどが立たないまま退職した。障害者手帳の対象にはならない。ハローワークに行っても、「痛みがあるなら、まず治療を」と言われる。治療を続けても完全に痛みがなくなることはない。彼女はどこに相談すればいいのか。
もし、英国のように医療機関の中に就労支援の窓口があったら。「痛みをゼロにしなくても、こういう働き方なら可能ですよ」と一緒に考えてくれる人がいたら。彼女の朝は、少し違ったものになるかもしれない。
今後の注目ポイント
日本でも、変化の兆しがないわけではない。厚生労働省は「治療と仕事の両立支援」を推進しており、がん患者を中心に両立支援コーディネーターの配置が進んでいる。この枠組みをMSK疾患や慢性疼痛にも広げられないか。また、2024年4月に引き上げられた法定雇用率の対象範囲の議論の中で、手帳を持たない難病・慢性疾患の人々をどう位置づけるかも、今後の重要な論点になるだろう。
英国の新政策がどのような成果を上げるかも注視したい。医療と就労支援の一体提供が、実際にどれだけの人を労働市場に戻すことができるのか。その検証結果は、日本の政策立案にとっても貴重な参考材料になるはずだ。
「体が痛い」と「働きたい」は、矛盾しない。矛盾させているのは、その間をつなぐ仕組みがないことだ。痛みを抱える人の「働きたい」という小さな声が、制度の谷間に落ちてしまわないように。私たちはまず、その声が聞こえる場所に立つことから始めたい。
参照元(出典)
- ハートネット | NHK(heart-net.nhk.or.jp)
- Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
- 一般職業紹介状況(令和8年4月分)について(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。