
あの人の通院から、制度を考える
腰の痛みをこらえながら起き上がり、バス停まで15分歩く。バスは1時間に1本。乗り遅れれば、予約していた診察に間に合わない——。
生活保護を受けながら暮らす人にとって、「病院に行く」という行為は、私たちが想像するよりずっと重い。交通費の工面、移動の身体的負担、窓口での視線。そのすべてが、通院をためらわせる「見えない壁」になっている。
厚生労働省が公表した令和7年1月分の概数による被保護者調査と、直近で開催された「医療扶助に関する検討会」の議論。この2つの資料を重ねて読むと、数字の裏側にある一人ひとりの暮らしと、制度がまだ届いていない場所が浮かび上がってくる。
被保護者調査が映し出す「いま」
最新の被保護者調査(令和7年1月分概数)によれば、被保護実人員は約200万人規模で推移している。被保護世帯数は約165万世帯にのぼり、そのうち高齢者世帯が全体の半数以上を占める。障害者・傷病者世帯を合わせると、医療や介護を日常的に必要とする世帯が大多数を構成していることがわかる。
ここで注目したいのは、世帯類型別の構成比の変化だ。かつて生活保護の「典型」とされた稼働年齢層の失業世帯は相対的に減少し、代わりに単身高齢世帯の割合が年々増えている。つまり、生活保護制度はいま、「働けるのに働かない人のセーフティネット」ではなく、「年を重ね、病を抱え、頼れる家族がいない人の最後の砦」としての性格を強めている。
この構造変化は、医療扶助の重要性を一層高めている。生活保護費全体に占める医療扶助の割合は約半分。金額にして年間約1.8兆円規模とされる。これは単に「医療費が膨らんでいる」という財政の話ではない。200万人の暮らしの中心に「医療」があるという事実の反映だ。
医療扶助検討会で何が議論されているのか
「医療扶助に関する検討会」は、生活保護受給者の医療の質と適正化を同時に追求するために設置された会議体だ。直近の議論では、いくつかの重要な論点が浮上している。
頻回受診と「受診控え」の両極
医療扶助をめぐっては、以前から「頻回受診」の問題が指摘されてきた。自己負担がないために過剰な受診が生じているのではないか、という議論だ。実際、一部の受給者に受診回数の偏りがあることはデータで示されている。
しかし検討会では、もう一つの極——「受診控え」の深刻さにも光が当てられている。生活保護を受けていても、医療機関の窓口で「保護受給者です」と告げることへの心理的抵抗、交通手段の乏しさ、そもそも自分の体調の変化に気づけない孤立状態。こうした要因が重なり、必要な医療にたどり着けない人がいる。
頻回受診と受診控え。一見矛盾するこの2つの現象は、実は同じ根を持っている。それは「受給者と医療をつなぐ中間支援」の不足だ。主治医との信頼関係、ケースワーカーによる健康管理の伴走、地域の保健師との連携——こうした「人と人のつながり」が薄い場所で、受診行動は両極端に振れやすくなる。
健康管理支援事業の現在地
2021年から本格実施された「被保護者健康管理支援事業」は、まさにこの課題に応えようとする仕組みだ。レセプトデータや健診結果をもとに、受給者一人ひとりの健康状態を把握し、必要に応じて保健指導や受診勧奨を行う。
しかし、自治体間の取り組みには大きな温度差がある。専門職の配置が進んでいる自治体では、糖尿病の重症化予防や精神疾患の早期対応に成果を上げている一方、人手不足の自治体ではデータの集計すら追いついていないのが実情だ。検討会では、この格差をどう埋めるかが繰り返し論点になっている。
オンライン資格確認と医療DXの波
検討会のもう一つの重要テーマが、医療扶助へのオンライン資格確認の導入だ。マイナンバーカードを活用した資格確認が医療保険の世界では標準になりつつある中、医療扶助の受給者もこの仕組みに乗せていく方向で議論が進んでいる。
これが実現すれば、福祉事務所が発行する「医療券」を毎回持参する手間が省ける。受給者にとっては、窓口で保護受給者であることを周囲に知られるリスクが減るという心理的なメリットも大きい。
一方で、マイナンバーカードの取得率は生活保護受給者の間で必ずしも高くない。住所不定の状態からの保護開始、認知機能の低下、デジタル機器への不慣れ——カードを「持てない」「使えない」人への配慮なしに進めれば、デジタル化が新たな排除を生む可能性もある。制度設計には、こうした「取り残される人」への想像力が不可欠だ。
健康保険法施行規則等の改正とパブリックコメント

医療扶助の議論と並行して、健康保険法施行規則等の改正に関するパブリックコメントの募集も行われている。改正内容には、オンライン資格確認の運用拡大や、電子的な情報連携の基盤整備が含まれる。
パブリックコメントという制度は、市民が政策形成に参加できる数少ない公式チャンネルだ。しかし、その存在を知っている生活保護受給者がどれだけいるだろうか。「私たちのことを私たち抜きに決めないで」——障害者権利条約の精神は、ここでも問われている。
当事者団体や支援者が、パブリックコメントの内容を「翻訳」し、受給者自身が意見を出せるよう橋渡しすること。それもまた、福祉の現場にできる大切な仕事だと思う。
数字を「あの人の通院」に戻す
200万人。165万世帯。医療扶助1.8兆円。
これらの数字は、マクロで見れば財政や政策の議論の素材だ。しかし、一つひとつの数字を分解していけば、そこには必ず「一人の日常」がある。
腰が痛くてバス停まで歩けない82歳の男性。精神科の予約日に体が動かず、布団から出られなかった40代の女性。知的障害のある息子の通院に付き添うために、パートを休まざるを得ない60代の母親。
制度は、こうした一人ひとりの朝を少しでも楽にするために存在する。検討会の議論も、法改正のパブリックコメントも、最終的にはこの「日常」につながっていなければ意味がない。
今後の注目ポイント
今後、以下の3つの動きに注目したい。
第一に、健康管理支援事業の自治体間格差の是正。好事例の横展開だけでなく、専門職の人件費を国がどこまで担保するかが鍵を握る。現場のケースワーカー1人あたりの担当世帯数は、標準で80世帯とされるが、実態はそれを大きく超える自治体も少なくない。健康管理支援を「やるべきこと」に加えるなら、それに見合う人員体制の議論は避けて通れない。
第二に、オンライン資格確認の導入プロセス。技術的な整備と同時に、デジタルに不慣れな受給者への丁寧な移行支援が求められる。医療券の廃止が先行し、代替手段が整わないまま「受診できない期間」が生まれるような事態は、絶対に避けなければならない。
第三に、当事者参画の仕組みづくり。検討会の構成員に当事者や経験者の声がどこまで届いているか。パブリックコメントへのアクセシビリティは十分か。制度を使う人が制度を育てる——その回路を太くしていくことが、持続可能な社会保障の土台になる。
小さな希望を、制度のなかに
生活保護をめぐる報道は、ともすれば「不正受給」や「財政負担」といった切り口に偏りがちだ。しかし、この制度がなければ命をつなげなかった人が、いま現在200万人いる。その事実に、まず敬意を払いたい。
医療扶助検討会の議論は、地味で、専門的で、ニュースになりにくい。しかし、そこで交わされる一つひとつの論点が、誰かの「明日の通院」を左右する。
制度は完璧ではない。でも、制度を少しずつ良くしていこうとする人たちがいる。その営みを伝え続けることが、福祉メディアの役割だと信じている。
あの人の通院が、ほんの少しだけ楽になるように。
参照元(出典)
- 被保護者調査(令和8年3月分概数)(mhlw.go.jp)
- 第6回医療扶助・健康管理支援等に関する検討会の開催について(報道発表)(mhlw.go.jp)
- 健康保険法施行規則等の一部を改正する省令案に関するご意見の募集について(public-comment.e-gov.go.jp)
- 健康保険法施行令等の一部を改正する政令案に関するご意見の募集について(public-comment.e-gov.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。