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時給が上がるほど、現場が苦しくなるという矛盾
ある地方の障害者グループホームで働く支援員の女性は、こう漏らした。「最低賃金が上がるのは嬉しいはずなのに、管理者の顔がどんどん暗くなるんです。来年度、うちの事業所はあるんだろうかって」。 最低賃金の引き上げは、働く人の暮らしを底上げする重要な政策だ。政府は2020年代のうちに全国加重平均1,500円を目指す方針を掲げ、2024年度には過去最大の引き上げ幅となる50円増(全国加重平均1,054円)を実現した。中央最低賃金審議会の目安制度全員協議会では、今後の引き上げペースや地域間格差の是正について議論が続いている。 しかし、この「賃金を上げる」という社会全体の潮流が、ある業界にだけ深刻な構造矛盾を突きつけている。介護・障害福祉サービスを担う福祉事業所だ。飲食業や小売業であれば、人件費が上がった分をメニューや商品の価格に転嫁できる。だが福祉事業所の収入の大半は、国が定めた「公定価格」――介護報酬や障害福祉サービス等報酬――で決まる。自分たちの判断で値上げすることはできない。最低賃金が上がるたびに支出だけが膨らみ、収入は据え置き。この構造が変わらない限り、現場の苦しさは増す一方だ。数字が語る「持たない経営」のリアル
どれほどの負担増になるのか、具体的に考えてみたい。 常勤換算で20人のスタッフを抱える小規模な通所介護事業所があるとする。仮に最低賃金が年50円ずつ上がり続けた場合、パート職員を含めた人件費は年間でおよそ200万〜300万円の増加になる。さらに、最低賃金の上昇は既存職員の賃金テーブル全体を押し上げる「玉突き効果」を生む。新人の時給が上がれば、3年目・5年目の職員から「自分たちとの差がなくなる」と不満が出るのは当然だ。結果として、事業所全体の人件費増は最低賃金の直接的な影響額の1.5倍〜2倍に膨らむとも言われている。 一方、収入はどうか。介護報酬の改定は原則3年に1度。2024年度の改定率は全体で+1.59%だったが、そのうち0.98%分は介護職員の処遇改善に充てる加算の一本化によるもので、事業所の基本報酬が大きく上がったわけではない。障害福祉サービスの報酬も同様の構造だ。つまり、最低賃金は毎年上がるのに、収入が見直されるのは3年に1度。このタイムラグが、福祉事業所の資金繰りをじわじわと追い詰めている。 福祉医療機構(WAM)のデータによれば、2022年度の社会福祉法人の経常増減差額比率(一般企業でいう経常利益率)の平均は約1.5%にまで低下している。赤字法人の割合は3割を超えた。利益率1.5%とは、年間収入1億円の事業所で手元に残るのがわずか150万円ということだ。ここに毎年数百万円の人件費増がのしかかれば、持ちこたえられない事業所が出てくるのは自明だろう。「人が来ない」のは賃金だけの問題ではない
最低賃金が上がれば人材が集まるかといえば、話はそう単純ではない。 介護労働安定センターの2023年度調査では、介護事業所の人材不足感は66.3%に達し、過去最高を更新した。離職率は14.4%で、全産業平均(15.0%)とほぼ同水準だが、問題は「入職者が減っている」ことにある。コンビニエンスストアや物流倉庫のアルバイトが時給1,200円〜1,500円を提示する時代に、身体介助や夜勤を伴う介護職が同水準の賃金では、選ばれにくい。 さらに深刻なのは、小規模な福祉事業所ほど処遇改善加算の取得が難しいという現実だ。加算を取るにはキャリアパス制度の整備や研修体制の構築が必要で、事務負担も大きい。管理者が現場のケアも事務も兼任しているような事業所では、加算の申請書類を整えること自体がハードルになる。結果として、「加算を取れる大規模法人」と「取れない小規模事業所」の間で賃金格差が広がり、人材はさらに大規模法人に集中する。地域の小さなグループホームや就労支援事業所が一つ、また一つと閉じていく。それは数字には表れにくいが、そこに通っていた障害のある人や、なじみのヘルパーに支えられていた高齢者の「暮らしの土台」が崩れるということだ。海外は「公定価格」の壁をどう越えているか
この問題は日本だけのものではない。公的な介護保障制度を持つ国は、多かれ少なかれ同じジレンマを抱えている。
イギリスでは、全国最低賃金(National Living Wage)の引き上げに伴い、地方自治体が介護事業者に支払う委託費の不足が常態化し、2023年には介護事業者の倒産件数が過去最多を記録した。これを受けて政府は、自治体への社会的ケア交付金を増額するとともに、介護報酬の「フロア価格」(最低保障額)の導入を検討し始めている。
ドイツでは2021年の介護改革で、一定水準以上の賃金を支払うことを介護保険の指定要件とした。つまり「安い賃金で運営する事業所はそもそも参入できない」仕組みにし、その分の費用は介護保険料の引き上げと公費投入で賄う設計にした。
これらの事例が示すのは、「公定価格のサービスで最低賃金を引き上げるなら、公定価格そのものを連動させる仕組みが不可欠だ」というシンプルな原則だ。日本でこれを実現するには、介護報酬・障害福祉報酬の改定サイクルを3年から短縮するか、最低賃金の変動に自動連動する補正係数を報酬体系に組み込むか、いずれかの制度設計が必要になる。
「報酬改定の谷間」を埋める仕組みを
中央最低賃金審議会の目安制度全員協議会では、引き上げ額の算定方法や地域区分の見直しが議論されている。だが、そこでの議論はあくまで「最低賃金をいくらにするか」であり、「公定価格の産業にどう波及するか」は射程に入っていない。一方、社会保障審議会の介護給付費分科会や障害者部会では報酬水準が議論されるが、最低賃金の上昇ペースを前提にした制度設計にはなっていない。 二つの審議会の議論がつながっていないこと。これが構造的な問題の根っこにある。 現場からは、報酬改定の「谷間の年」に経営が行き詰まるという声が繰り返し上がっている。2024年度に報酬改定があったとすれば、次は2027年度。その間に最低賃金が毎年50円ずつ上がれば、3年間で150円。時給150円の上昇は、20人規模の事業所で年間500万円以上の人件費増に相当しうる。この3年間をどう乗り越えるのか。補助金や基金による緊急的な支援も選択肢だが、根本的には報酬と賃金の連動性を制度に埋め込むことが求められる。一人ひとりの暮らしの問題として
最低賃金の議論は、ともすれば「経済政策」や「労働政策」の枠の中だけで語られがちだ。だが、福祉事業所の経営が立ち行かなくなったとき、最も影響を受けるのは、そこでサービスを受けている人たちだ。 全国で約90万人が利用する障害福祉サービス、約700万人が利用する介護保険サービス。その一つひとつの事業所の背後には、「あの事業所があるから、この町で暮らし続けられる」という人がいる。事業所が閉じれば、次の受け入れ先が見つかる保証はない。特に地方や過疎地では、代替となるサービスが存在しないケースも少なくない。 最低賃金を上げることと、福祉の現場を守ること。この二つは本来、対立するものではない。働く人の暮らしを守る政策と、支えを必要とする人の暮らしを守る政策が、同じ方向を向くための制度設計。それが今、問われている。 冒頭のグループホームで働く支援員の女性は、最後にこう言った。「利用者さんの『おはよう』が聞けるこの仕事が好きなんです。だから続けたい。でも、続けられる条件がほしい」。その言葉は、制度の隙間に落ちかけている何万人もの福祉従事者の声を代弁している。 参照元(出典)- 第74回中央最低賃金審議会 資料(mhlw.go.jp)
- 令和8年度中央最低賃金審議会目安に関する小委員会(第1回)資料(mhlw.go.jp)
- 第3回目安制度の在り方に関する全員協議会 資料(mhlw.go.jp)
- 第73回中央最低賃金審議会 資料(mhlw.go.jp)
- 社会保障審議会(介護給付費分科会)|厚生労働省(mhlw.go.jp)
- 第259回社会保障審議会介護給付費分科会(Web会議)を開催します(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。