介護保険の預貯金把握が始まる?──65歳の壁の向こうで、「備え」が「罰」に変わる日

介護保険の預貯金把握が始まる?──65歳の壁の向こうで、「備え」が「罰」に変わる日

「コツコツ貯めたお金が、支援を遠ざける」──ある当事者の不安

50代の脳性まひの男性が、こんなことを言っていた。

「親が少しずつ貯めてくれたお金がある。でも65歳になったら、そのお金があるせいで介護サービスの負担が増えるかもしれないって言われた。貯金があることが、まるで悪いことみたいだ」

この言葉が、今回の記事の出発点だ。

厚生労働省は現在、介護保険制度における預貯金等の資産把握の仕組みを本格的に検討し始めている。介護保険部会や関連する審議会での議論が進む中、「応能負担の強化」「制度の持続可能性」といった言葉が並ぶ。財政的な観点からすれば、資産のある人により多くの負担を求めるのは合理的に見えるかもしれない。

しかし、この議論を「人の暮らし」の側から見たとき、まったく違う風景が広がる。特に、65歳を境に障害福祉サービスから介護保険へと制度の「乗り換え」を迫られる障害のある人たちにとって、資産把握の導入は生活の根幹を揺るがしかねない問題だ。

「65歳の壁」──制度の乗り換えで何が起きるのか

まず、前提を整理しておきたい。

日本の福祉制度には、障害者総合支援法に基づく「障害福祉サービス」と、介護保険法に基づく「介護保険サービス」という二つの大きな柱がある。障害のある人が65歳になると、原則として介護保険が優先適用される。これがいわゆる「65歳の壁」「介護保険優先原則」と呼ばれる問題だ。

障害福祉サービスでは、利用者負担は所得に応じた応能負担であり、住民税非課税世帯であれば自己負担はゼロになるケースも多い。一方、介護保険では原則1割(所得に応じて2割・3割)の応益負担が発生する。つまり、64歳まで自己負担なしでヘルパーを利用していた人が、65歳の誕生日を迎えた途端に毎月数万円の負担を求められる──そんなことが実際に起きている。

2018年の介護保険法改正で「新高額障害福祉サービス等給付費」が創設され、65歳以上の障害者の利用者負担を軽減する仕組みはできた。しかし対象は限定的で、65歳になる前に5年以上障害福祉サービスを利用していたこと、住民税非課税であることなど、複数の要件を満たす必要がある。すべての人が救われるわけではない。

資産把握の検討──何が議論されているのか

この「65歳の壁」に、さらに新たな壁が加わろうとしている。それが預貯金等の資産把握だ。

現行の介護保険制度でも、補足給付(施設入所時の食費・居住費の軽減)の判定においては、預貯金額が考慮されている。2021年8月の制度改正で基準が厳格化され、単身で預貯金が1000万円(夫婦で2000万円)を超える場合は補足給付の対象外となった。さらに所得段階に応じて基準額は引き下げられ、年金収入80万円以下の単身者でも預貯金が650万円を超えれば、食費・居住費の軽減を受けられなくなった。

そして今、議論されているのは、この資産把握の仕組みを補足給付にとどめず、介護保険の利用者負担割合の判定や、高額介護サービス費の算定にまで広げるかどうかという点だ。もし実現すれば、在宅サービスを利用する人も含めて、預貯金の額が毎月の自己負担額を左右することになる。

財務省の財政制度等審議会は以前から、金融資産の保有状況を負担能力の判定に反映させるべきだと提言してきた。マイナンバーと預貯金口座の紐付けが進めば、技術的にも資産把握は容易になる。制度の持続可能性という観点からは、「払える人には払ってもらう」という論理は一定の説得力を持つ。

しかし、ここで立ち止まって考えたい。「払える人」とは誰なのか。そしてその「資産」は、何のために蓄えられたものなのか。

障害のある人にとっての「貯金」の意味

障害のある人やその家族にとって、預貯金は単なる余裕資金ではない。

冒頭の男性のように、親が子どもの将来を案じて少しずつ貯めたお金がある。障害基礎年金を切り詰めて、「親亡き後」に備えた蓄えがある。グループホームに入るための頭金、車いすの買い替え費用、急な入院への備え──それらは「贅沢」ではなく、「命綱」だ。

障害のある人の多くは、一般的な就労による収入を得ることが難しい。厚生労働省の調査によれば、就労継続支援B型事業所の平均工賃は月額約1万7000円(2022年度)。障害基礎年金2級の月額は約6万8000円。合わせても月8万5000円程度の収入で、ここから生活費を捻出しながら将来に備えている。

こうした背景を持つ人が65歳になり、介護保険に移行した途端に「預貯金が一定額以上あるから負担増」と言われたら、どうなるか。将来への備えが、支援を遠ざける要因に変わる。「コツコツ貯めたことが罰になる」──そう感じるのは、決して大げさなことではない。

生活保護基準部会の議論との交差点

資産把握の議論は、生活保護制度の見直しとも交差する。生活保護基準部会では、保護の要否判定における資産の取り扱いが継続的に議論されている。生活保護では従来から預貯金の保有に厳しい制限があり、「貯金があるなら保護は受けられない」という運用が、生活困窮者を制度から遠ざけてきた歴史がある。

介護保険における資産把握が強化されれば、障害のある人は二重の圧力にさらされることになる。障害福祉から介護保険への移行で負担が増え、さらに資産があれば負担がもう一段上がる。かといって資産を使い切れば、将来の不測の事態に対応できなくなる。生活保護に至れば、今度は資産保有そのものが制限される。どの方向に進んでも、「安心」にたどり着けない構造がある。

海外ではどうしているのか──イギリスのミーンズテストから学ぶこと

イギリスでは、社会的ケア(日本の介護保険に相当)の利用にあたり、「ミーンズテスト(資力調査)」が行われている。資産が2万3250ポンド(約440万円、2023年時点)を超える場合、ケア費用は全額自己負担となる。

しかし、この制度には長年にわたる批判がある。「家を売らなければケアを受けられない」という事態が頻発し、2021年にはジョンソン政権が資産上限を8万6000ポンド(約1600万円)に引き上げる改革を発表した(ただし実施は延期されている)。イギリスの経験は、資産把握と負担増を安易に結びつけることのリスクを示している。

日本がこの方向に進むのであれば、少なくとも以下の点が不可欠だろう。

  • 障害に起因する追加的コストの考慮:障害のある人は、障害のない人と比べて生活に追加的なコストがかかる。車いすのメンテナンス、バリアフリー住宅の維持、通院の交通費など。資産の評価にあたっては、こうした「障害ゆえの支出」を差し引く仕組みが必要だ。
  • 「親亡き後」の備えへの配慮:親や家族が障害のある子どものために蓄えた資産を、単なる「余裕」と見なさない制度設計が求められる。
  • 段階的な負担設計:一定額を超えたら一気に負担が跳ね上がる「崖」を作らず、なだらかな傾斜をつけること。

支援の現場で何が起きるか

制度が変われば、支援の現場も変わる。

相談支援専門員やケアマネジャーは、65歳を迎える障害のある人に対して、これまで以上に複雑な制度の説明を求められることになる。「あなたの預貯金がいくらあるかによって、来月からの負担額が変わります」──そんな説明を、信頼関係の中でどう伝えるのか。

現場の支援者からは、すでにこんな声が聞こえてくる。

「制度の説明だけで面談の時間が終わってしまう。本当に話したいのは、その人がどう暮らしたいかなのに」

資産把握の仕組みが導入されれば、申告手続きや書類の準備など、事務的な負担も増える。知的障害や精神障害のある人が自分で預貯金の申告を行うことが難しい場合、誰がそれを支援するのか。成年後見人がついている場合とそうでない場合で、対応はどう変わるのか。制度の「設計図」だけでは見えない、現場の困りごとが山積している。

「制度の持続可能性」と「一人ひとりの暮らしの持続可能性」

介護保険制度の財政が厳しいことは事実だ。2023年度の介護給付費は約11兆円を超え、2040年度には約15兆円に達すると推計されている。制度を維持するために、負担のあり方を見直す必要があるという議論そのものを否定するつもりはない。

しかし、「制度の持続可能性」を語るとき、「一人ひとりの暮らしの持続可能性」が見落とされてはならない。年金と工賃を合わせて月8万5000円で暮らす人の預貯金300万円と、厚生年金で月20万円を受け取る人の預貯金300万円は、同じ「300万円」でもまったく意味が違う。数字の向こうにある暮らしを見なければ、公平な制度は作れない。

小さな希望を見つけるために

2022年の最高裁判決(天海訴訟)は、65歳になった障害者に対して一律に介護保険への移行を強いることの問題を浮き彫りにした。各地で「介護保険優先原則」の運用を見直す動きも少しずつ広がっている。

資産把握の議論が進む今だからこそ、問い直したいことがある。

障害のある人が、将来に備えてお金を貯めること。それは当たり前の権利であり、自立の一つの形だ。その「備え」が制度によって「罰」に変わるような仕組みは、誰のための制度なのか。

今後の制度設計において、当事者の声がどれだけ反映されるかが問われている。「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」──この原則が、審議会の議論の中で本当に生きているかどうか。私たちメディアも、その過程を注視し続けなければならない。

制度は変わる。でも、変わり方は選べる。誰かの「備え」を奪うのではなく、誰もが安心して備えられる制度へ。その道筋を、一緒に考えていきたい。

参照元(出典)

  1. 第1回介護保険制度における預貯金等の把握等に係る検討の場の資料について(mhlw.go.jp)
  2. 第57回社会保障審議会生活保護基準部会 資料(mhlw.go.jp)
  3. 社会保障審議会(介護給付費分科会)|厚生労働省(mhlw.go.jp)

執筆者プロフィール

TOPへ