「患者」と「障害者」のはざまで――精神障害者の権利が宙に浮く日本の構造的死角

「患者」と「障害者」のはざまで――精神障害者の権利が宙に浮く日本の構造的死角

精神障害のある人の日常の風景

布団の中で目を開けたまま、30分が過ぎる。起き上がる理由を頭の中で探す。通院日でなければ、誰とも約束がない。ヘルパーが来る日でもない。「今日も一日、自分で自分をなんとかしなければならない」――精神障害を抱えて地域で暮らす人の朝は、そんなふうに始まることがある。

この「日常の重さ」を、日本の福祉制度はどこまで受け止められているだろうか。精神障害のある人は、医療の世界では「患者」として扱われ、福祉の世界では「障害者」としての支援を受けられるはずだ。しかし現実には、その二つの制度のあいだに深い溝があり、多くの人がそこに落ちたまま見えなくなっている。

欧州では、精神障害者の権利を「医療の問題」から「人権の問題」へと転換する動きが加速している。日本の障害者部会でも制度の見直しは議論されているが、精神障害者の「権利」という視座は驚くほど薄い。本記事では、欧州の非政府組織Mental Health Europe(MHE)の動向、日本の社会保障審議会障害者部会の議論、そして被保護者調査の数字を重ね合わせながら、この構造的な死角を描き出す。

欧州が示す座標軸――MHEの「認識から行動へ」

Mental Health Europe(MHE)は、ブリュッセルに本部を置く欧州最大級の精神保健分野のNGOネットワークだ。加盟団体は70以上、EU機関への政策提言を通じて精神障害者の権利擁護を推進してきた。

MHEが近年繰り返し掲げるフレーズがある。「Recognition Must Lead to Action(認識は行動につながらなければならない)」。精神障害者の困難が「認識」されること自体は進んだ。しかし認識だけでは暮らしは変わらない。法制度、予算配分、地域サービスの設計に具体的に反映されて初めて意味がある、という主張だ。

2025年には、EU全体の障害者権利戦略(2021-2030)の中間見直しに合わせ、MHEは精神障害者が障害者権利条約(CRPD)の枠組みの中で十分に保護されていない実態を報告書にまとめた。ポイントは三つある。

  1. 強制入院・強制治療の問題:EU加盟国の多くで依然として精神科への非自発的入院が法的に認められており、CRPDが求める「法的能力の平等な承認」と矛盾している。
  2. コミュニティベースのサービス不足:脱施設化の方針は掲げられても、地域で暮らすための支援体制(住居、就労、ピアサポート)への投資が追いついていない。
  3. 子ども・若者のメンタルヘルスへの早期投資:2026年に向けた「EU Alliance for Investing in Children」への共同声明では、精神的な健康が子どもの発達と社会参加の土台であることが強調され、教育・福祉・医療の横断的な対応が求められた。

これらの論点は、そのまま日本に重ねることができる。いや、日本の方がより深刻かもしれない。

日本の障害者部会で「精神障害者の権利」はどう語られているか

社会保障審議会障害者部会は、障害保健福祉施策の方向性を審議する国の重要な会議体だ。2024年度から2025年度にかけての部会では、障害福祉サービスの報酬改定、地域生活支援拠点の整備、障害者総合支援法の施行状況の検証など、多岐にわたるテーマが議論されてきた。

しかし、議事録や配布資料を丁寧に読むと、ある偏りに気づく。精神障害に関する議論の多くは「精神科医療の提供体制」や「医療と福祉の連携」という枠組みで語られ、精神障害者本人の「権利」――自己決定権、地域で暮らす権利、強制医療からの自由――が正面から議題になる場面は極めて限られている。

身体障害や知的障害の分野では、グループホームの質の確保、意思決定支援の推進、虐待防止といった「権利ベース」の議論が一定程度蓄積されてきた。ところが精神障害の領域になると、議論の軸が「医療モデル」に引き戻されやすい。精神障害者は「治療が必要な人」であり、「治療が安定すれば社会復帰できる人」として位置づけられる。その前提自体が、精神障害のある人を「権利の主体」ではなく「支援の客体」にとどめている。

MHEの言葉を借りれば、日本では「認識」すら十分ではない段階にある。

数字が語る「見えない困窮」――被保護者調査から

精神障害者が制度の谷間に置かれていることを、別の角度から照らす数字がある。厚生労働省が公表している被保護者調査だ。

令和7年(2025年)3月分の概数によると、生活保護受給世帯は約165万世帯、受給者数は約202万人。このうち、「障害者世帯」に分類される世帯は約25万世帯で、全体の約15%を占める。さらに注目すべきは、障害者世帯の中で精神障害を主たる障害とする世帯の割合が年々増加傾向にあることだ。

この数字が意味するのは何か。精神障害のある人が、障害福祉サービスや就労支援によって生活を組み立てることができず、最終的に生活保護というセーフティネットに「落ちてくる」構造があるということだ。

生活保護の受給自体は権利であり、必要な人が利用することに何の問題もない。しかし、もし障害福祉サービスの側で十分な地域生活支援――たとえば住居確保、日中活動の場、就労準備支援、ピアサポート――が提供されていれば、生活保護に至らずに済んだ人がいるのではないか。あるいは、生活保護を受けながらも、より主体的に暮らしを立て直す支援を受けられたのではないか。

一人の被保護者に対する生活保護費は、単身世帯の場合、生活扶助と住宅扶助を合わせて月額およそ12万〜13万円(地域による)。年間で約150万円。仮に適切な障害福祉サービスの介入によって1万人が生活保護から自立できたとすれば、年間約150億円の財政効果がある計算になる。もちろん、福祉サービスの提供にもコストはかかる。だが、就労継続支援B型事業所の一人当たり給付費が月額約16万円程度であることを考えれば、「支援して社会参加につなげる」ことと「保護費を給付し続ける」ことのどちらが本人の尊厳にかなうかは明らかだろう。

数字の話をしたが、これは150億円の話ではない。1万人分の日常の話だ。

なぜ溝は埋まらないのか――三つの構造要因

精神障害者が「患者」と「障害者」のはざまに置かれ続ける背景には、少なくとも三つの構造的な要因がある。

第一に、法制度の二元構造。精神障害者に関する法律は、精神保健福祉法と障害者総合支援法の二本立てになっている。前者は「医療と保護」を軸に、後者は「自立と社会参加」を軸に設計されている。この二つの法律の間に、本人の「権利」を一貫して守る仕組みが欠けている。とりわけ精神保健福祉法に残る医療保護入院の制度は、本人の同意なく入院させることを可能にしており、CRPDとの整合性が国際的にも問われ続けている。

第二に、支援者の分断。精神科医療の現場と障害福祉の現場では、専門職の養成課程も、日常的に使う言葉も、支援の時間軸も異なる。医療は「症状の安定」をゴールに設定しがちであり、福祉は「生活の継続」を重視する。両者が連携する場面は増えてきたが、「本人の権利をどう守るか」という共通言語はまだ育っていない。

第三に、当事者の声が届きにくい構造。精神障害のある人は、症状の波や社会的スティグマのために、審議会や政策決定の場に参画しにくい。障害者部会の委員構成を見ても、精神障害の当事者団体からの参加はあるものの、身体障害や知的障害の分野と比べて発言の厚みに差がある。「私たちのことを私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」という障害者権利運動の原則が、精神障害の領域ではまだ十分に実現されていない。

海外の事例を日本に持ってくるなら何が必要か

MHEの取り組みをそのまま日本に移植することはできない。EUには加盟国を横断する障害者権利戦略があり、各国の施策を比較・監視する仕組みがある。日本にはそうした外部からの「圧力」が弱い。

しかし、参考にできる要素はある。

一つは、精神保健政策を「医療政策」から「人権政策」へとフレームを転換することだ。これは予算の付け替えだけでは実現しない。障害者基本計画や障害福祉計画の策定過程で、精神障害者の権利に関する独立した章を設け、数値目標を明記することが第一歩になる。

もう一つは、ピアサポートの制度的な位置づけの強化だ。精神障害の領域では、同じ経験を持つ当事者による支援(ピアサポート)が回復に大きな効果を持つことが国内外の研究で示されている。2024年度の報酬改定でピアサポート体制加算が設けられたことは前進だが、加算額は小さく、ピアサポーターの処遇も不安定なままだ。ピアサポーターが「安い労働力」ではなく「権利擁護の担い手」として位置づけられるための制度設計が必要だ。

小さな希望のありか

冒頭の「日常の風景」に戻ろう。布団の中で30分動けなかった人が、ある日、ピアサポーターからの電話で「今日、一緒にコンビニ行かない?」と誘われて外に出る。それだけのことが、一日の色を変えることがある。

制度は一夜にして変わらない。しかし、精神障害者の「権利」という言葉が、障害者部会の議事録に一行でも多く刻まれること。被保護者調査の数字の裏にある一人ひとりの朝を、政策立案者が想像すること。MHEが言う「認識から行動へ」の転換が、日本でも始まること。

その兆しは、まだかすかだ。だが、かすかであっても、見逃してはいけない。

精神障害のある人が「患者」でも「障害者」でもなく、まず「一人の市民」として暮らせる社会。その社会は、制度の谷間を埋めることからしか始まらない。そして谷間を埋める最初の一歩は、谷間があることに気づくことだ。

この記事が、その気づきの一つになれば幸いだ。

参照元(出典)

  1. Mental Health Europe: Advocacy & Support for Well-being(mentalhealtheurope.org)
  2. 第156回 社会保障審議会 障害者部会(令和8年6月5日開催予定)(wam.go.jp)
  3. 被保護者調査(令和8年3月分概数)(mhlw.go.jp)

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