
「今日つらい」に、3ヶ月後しか応えられない国
朝、起き上がれない。仕事に行こうとすると涙が止まらない。誰かに話を聞いてほしい──そう思って精神科の予約を取ろうとしたとき、「最短で3ヶ月後です」と告げられる。その3ヶ月間、その人の朝はどうなるのだろう。
2026年4月30日、英国政府はNHS(国民保健サービス)にメンタルヘルス専門職8,500人を新たに配置する方針を発表した。心理療法士、精神科医、精神保健看護師を大幅に増やし、深刻化する待機問題に正面から切り込む政策だ。人口約6,800万人の国で8,500人。これは人口約8,000人に1人の専門職が新たに加わる計算になる。
翻って日本はどうか。「メンタルヘルスは大事」と誰もが口にする時代になった。しかし、「大事だ」と認識することと、「必要なときに専門家に会える」ことの間には、途方もない距離がある。英国の大胆な一手を鏡にして、日本の精神科医療の現在地を見つめ直したい。
英国が8,500人を投じる背景──「待てない人」がいる
英国のメンタルヘルス政策は、ここ数年で大きく舵を切ってきた。NHSの精神科サービスでは、治療開始までに数ヶ月から1年以上待たされるケースが常態化し、待機中に症状が悪化して救急搬送される事例が社会問題となっていた。英国精神医学会(Royal College of Psychiatrists)の調査では、成人の精神科外来で治療を受けるまでの平均待機期間が18週間を超えるとも報告されている。
今回の8,500人増員は、こうした危機的状況への回答だ。注目すべきは、単に「人を増やす」だけでなく、地域のプライマリケア(かかりつけ医)の段階でメンタルヘルスの専門職を配置する「IAPT(Improving Access to Psychological Therapies)」プログラムの拡充と一体で進められている点にある。つまり、精神科病院に行く前の段階で、地域の中で心理的支援にアクセスできる仕組みを厚くしようとしている。
英国の人口は約6,800万人。8,500人という数字は、約8,000人の住民に対して新たに1人の専門職が加わることを意味する。これだけの規模の増員を政府が明確な政策として打ち出すこと自体が、メンタルヘルスを「国家の優先課題」として位置づけている証左だろう。
日本の現在地──数字の向こうにある「届かない支援」
日本の精神保健福祉の専門職はどれほどいるのか。厚生労働省の統計や各資格の登録者数を見ると、精神保健福祉士の登録者数は約10万人(2024年時点)、公認心理師は約7万人超に達している。精神科医は約1万7,000人前後とされる。数字だけを見れば、決して少なくないように見えるかもしれない。
しかし、ここに大きな落とし穴がある。登録者数と、実際に精神科医療や相談支援の現場で働いている人数は一致しない。精神保健福祉士の資格を持ちながら、福祉現場ではなく一般企業に勤めている人も少なくない。公認心理師も、常勤で臨床に従事している割合は限られている。「資格を持つ人の数」と「今日、目の前の患者を診られる人の数」は、まったく別の話なのだ。
その結果、何が起きているか。日本精神神経科診療所協会の調査などでは、精神科クリニックの初診予約までの待機期間が1〜3ヶ月に及ぶケースが珍しくないことが繰り返し指摘されている。都市部では「新規患者の受付を停止しています」と掲示するクリニックすらある。人口1億2,400万人の国で、「今日つらい」と言った人が今日のうちに専門家と話せる場所が、あまりにも少ない。
「初診3ヶ月待ち」は、誰の3ヶ月なのか
数字を「暮らし」に翻訳してみたい。
初診まで3ヶ月待つということは、約90日間、専門的な支援なしに過ごすということだ。うつ病の場合、未治療のまま3ヶ月が経過すると症状が慢性化するリスクが高まることが複数の研究で示されている。不安障害であれば、回避行動が固定化し、外出や就労がますます困難になる。若年層では、この空白期間に不登校や引きこもりが長期化し、社会とのつながりが断たれてしまうケースもある。
そしてこの「3ヶ月」は、本人だけの問題ではない。家族もまた、どう接すればいいのかわからないまま、不安を抱えて過ごすことになる。子どもの異変に気づいた親が相談先を探し、ようやく見つけた窓口で「3ヶ月後に来てください」と言われたとき、その親の朝はどう変わるだろう。
英国の8,500人増員は、まさにこの「空白の時間」を短くするための投資だ。待機日数が1週間縮まるだけで、その間に悪化せずに済む人がいる。早期に介入できれば、入院や長期休職に至らず、結果として医療費や社会的コストも抑えられる。英国の政策は「人を増やす」という単純な話に見えて、その実、「予防と早期介入への構造転換」という深い設計思想を持っている。
日本に持ってくるなら、何が必要か
英国の政策をそのまま日本に移植することはできない。NHSは税方式で運営される公的医療サービスであり、政府が直接的に人員配置を決定できる。一方、日本の精神科医療は、民間の診療所や病院が大半を担っており、人員配置は各医療機関の経営判断に委ねられている部分が大きい。
それでも、英国の取り組みから日本が学べることはある。
まず、「かかりつけ」の段階にメンタルヘルスの専門職を置くという発想だ。日本でも2024年度の診療報酬改定で、かかりつけ医と精神科の連携が一部評価されるようになったが、まだ十分とは言えない。内科や小児科の待合室に公認心理師がいて、身体の不調で受診した人が「実は眠れなくて」と打ち明けられる──そんな仕組みがあれば、精神科の初診待ちに至る前に支援が届く可能性がある。
次に、精神保健福祉士や公認心理師の「働く場」を広げる施策だ。資格保持者は増えているのに、常勤で臨床に従事できるポストが限られている。診療報酬上の評価が低いために、医療機関が専門職を雇用しにくいという構造的な問題がある。英国が8,500人分の人件費を国家予算として確保したように、日本でも「専門職を雇えば経営が成り立つ」仕組みを診療報酬や補助金の設計で担保する必要がある。
さらに、地域間格差の是正も避けて通れない。都市部でさえ初診待ちが深刻なのに、地方では精神科の医療機関そのものが少ない地域がある。オンライン診療やデジタルヘルスの活用は一つの解だが、それだけでは「画面越しでは話しにくい」という人を取りこぼす。地域の保健センターや福祉事務所に常駐する精神保健福祉士の配置拡充など、対面の相談機能を地域に根づかせる取り組みが不可欠だ。
当事者・家族・支援者、それぞれの声を聞く

この問題を考えるとき、忘れてはならないのは「数字の向こうにいる一人ひとりの声」だ。
当事者からは、「予約が取れないこと自体がストレスになる」「助けを求める気力があるうちに、つながれる場所がほしい」という声がある。家族からは、「本人が『行きたい』と言ったときが唯一のチャンスなのに、3ヶ月後と言われたらその気持ちは消えてしまう」という切実な訴えが聞こえてくる。支援者の側からも、「相談枠がいっぱいで断らざるを得ないとき、この人は次にどこへ行くのだろうと考えると胸が痛む」という声は少なくない。
制度や人員配置の議論は、こうした一つひとつの声から始まるべきだと思う。「私たちのことを私たち抜きに決めないで」──障害者権利条約の理念は、精神保健の領域でもまったく同じだ。
小さな希望を、仕組みにする
悲観ばかりしていても仕方がない。日本でも変化の兆しはある。2024年度から始まった「心のサポーター養成事業」は、地域住民がメンタルヘルスの基礎知識を学び、身近な人の異変に気づける人を増やす取り組みだ。専門職だけに頼るのではなく、地域全体で「気づき、つなぐ」力を育てようとする動きは、英国のIAPTとは異なるアプローチだが、日本の地域特性に合った一歩と言える。
また、一部の自治体では、精神保健福祉士を学校や企業に派遣する独自事業を始めている。こうした先行事例を丁寧に検証し、効果があるものを全国に広げていく作業が、今まさに求められている。
英国の8,500人という数字は、日本にとって「うらやましい話」で終わらせてはならない。あの数字の裏にあるのは、「待てない人がいる」という認識と、「待たせない」という政治的意志だ。日本でも、精神科の初診を待つ人の朝が、1日でも早く変わるような仕組みづくりが進むことを願っている。そしてそのためには、私たち一人ひとりが「メンタルヘルスの支援体制は足りているのか」と問い続けることが、何より大切な第一歩になるはずだ。
参照元(出典)
- Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
- Mental Health Europe: Advocacy & Support for Well-being(mentalhealtheurope.org)
- ギャンブル等依存症問題啓発週間(5月14日〜20日)に合わせ、Webコンテンツ「こころCafe」番外編「カンニング竹山 ギャンブル等依存症回復支援施設を訪ねる!」を5月14日より公開(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

メンタルヘルス、精神疾患に関する情報発信を中心に活動。医療や福祉制度の解説に加え、当事者や家族が抱える悩みに寄り添った記事を得意とする。