医療保険を失うかもしれない——。そんな不安を抱えながら目を覚ます人が、アメリカで数百万人規模で生まれようとしています。
米国の低所得者・障害者向け公的医療保険「メディケイド」に、新たな労働要件が導入されつつあります。対象となる成人受給者に「月80時間の就労」を求めるこの仕組み。働けなければ、医療保険を失う可能性がある——。「自立の促進」という看板の裏側で、当事者の暮らしに何が起きるのか。そしてこの動きは、海の向こうの話だけで終わるのでしょうか。
メディケイドの労働要件——「自立支援」か「排除」か
メディケイドは、米国で約9,000万人が利用する公的医療保険制度です。連邦政府と州政府が共同で運営し、低所得者、障害のある人、高齢者、妊婦、子どもなどが対象となっています。日本でいえば、生活保護の医療扶助と国民健康保険を合わせたような役割を果たす、命綱ともいえる制度です。
このメディケイドに対し、一部の州で「労働要件(work requirements)」を導入する動きが加速しています。具体的には、19歳から64歳までの「働ける」とみなされた成人受給者に対し、月80時間(週およそ20時間)の就労、職業訓練、教育プログラムへの参加、またはコミュニティサービスへの従事を義務づけるものです。
障害があると認定された人や妊婦、介護者などは免除対象とされていますが、ここに大きな落とし穴があります。免除を受けるためには、自分が該当することを「証明」しなければなりません。複雑な書類手続き、定期的な報告義務、オンラインシステムでの申請——。こうした行政手続きそのものが、障害のある人にとって大きな壁になることは、過去の事例が示しています。
2018年にアーカンソー州が全米で初めてメディケイドの労働要件を試行した際、わずか半年で約1万8,000人が保険資格を喪失しました。そのうち実際に「働いていなかった」人だけでなく、働いていたにもかかわらず報告手続きを完了できなかった人、免除対象だったのに申請方法がわからなかった人が多数含まれていたことが、後の調査で明らかになっています。制度が「働かない人をふるい落とす」のではなく、「手続きできない人をふるい落とす」装置として機能してしまったのです。
月80時間の意味——ある当事者の一日から考える
月80時間、週20時間。数字だけ見ると「パートタイムの仕事をすればいい」と思えるかもしれません。でも、少し立ち止まって想像してみてほしいのです。
精神障害のある人が、毎朝決まった時間に起きて、通勤し、職場で一定の時間を過ごし、帰宅する。その「当たり前」の一日を安定して続けるために、どれだけの準備と支えが必要か。服薬の管理、通院のスケジュール、体調の波への対応、職場での人間関係の調整——。「週20時間働く」という行為の裏側には、その何倍もの見えない労力があります。
あるいは、知的障害のある人が、毎月の就労時間を正確に記録し、オンラインシステムで報告する。その手続き自体に支援が必要な人は少なくありません。報告を忘れた、システムの使い方がわからなかった、引っ越しで届け出が遅れた——。そうした「つまずき」一つで、医療保険という命綱が切れてしまう可能性がある。それは「自立の促進」と呼べるものでしょうか。
米国の障害者権利団体は、この制度を「行政手続きによる排除(administrative disenrollment)」と批判しています。制度の目的が「働ける人に働いてもらう」ことだとしても、その手段が「働けない人や手続きできない人を医療から遠ざける」ことになってしまっては、本末転倒です。
日本の福祉制度に「労働要件」の影は忍び寄っているか
ここで視点を日本に移してみます。日本には米国のメディケイドと同じ制度はありませんが、「福祉を受けるなら働く努力を」という圧力は、形を変えて存在しています。
最もわかりやすいのが、生活保護制度における「稼働能力の活用」です。生活保護法第4条は、保護を受ける要件として「利用し得る能力を活用すること」を定めています。これは「働ける人は働いてください」という原則であり、福祉事務所のケースワーカーが就労指導を行う根拠にもなっています。
厚生労働省の被保護者調査(2023年)によると、生活保護受給世帯のうち障害者世帯は約25万世帯で、全体の約14%を占めています。このうち就労している人の割合は限定的ですが、近年、就労支援事業への参加を促す動きは強まっています。
障害福祉の分野でも、「就労」は大きなキーワードです。障害者総合支援法に基づく就労系サービスの利用者数は年々増加し、就労継続支援A型・B型、就労移行支援を合わせると約40万人以上が利用しています(2023年時点)。2024年4月の報酬改定では、就労継続支援A型事業所に対してより厳しい経営指標が導入され、「生産性」や「一般就労への移行実績」が重視される方向に舵が切られました。
この改定の結果、全国で経営が立ち行かなくなるA型事業所の閉鎖が相次ぎ、2024年度だけで少なくとも数十カ所が廃止届を提出したと報じられています。そこで働いていた障害のある人たちは、突然、日中の居場所と収入の両方を失うことになりました。
制度が「就労」を重視すること自体は、一つの方向性です。でも、「就労できる場」が十分に整わないまま「就労せよ」という圧力だけが強まると、結果として最も立場の弱い人が行き場を失う。米国のメディケイド労働要件と、構造的にはよく似た問題がここにあります。
「働く」と「暮らす」のあいだにあるもの

誤解のないように書いておきたいことがあります。障害のある人が働くこと、働きたいと願うことは、とても自然なことです。仕事を通じて社会とつながり、役割を持ち、収入を得る。それは多くの人にとって、生活の土台であり、尊厳の一部でもあります。
問題は、「働くこと」が福祉を受けるための「条件」になったとき、その意味が変質してしまうことです。
「働かなければ医療保険を失う」「就労実績がなければ支援の優先度が下がる」——。そうなったとき、「働く」は権利ではなく義務になり、自己実現ではなく生存のための強制になります。障害のある人が「働きたい」と思える環境をつくることと、「働かなければ福祉を受けられない」という条件を課すことは、まったく別のことです。
日本の障害者権利条約の批准(2014年)に際して、国連障害者権利委員会は2022年の対日審査で、日本に対し「障害者が地域社会で自立した生活を送る権利」の保障を強く求めました。「自立」とは「一人で何でもできること」ではなく、「必要な支援を受けながら、自分の人生を自分で決められること」——。委員会が示したこの定義は、労働要件の議論においても、立ち返るべき原点だと感じます。
米国の教訓を「日本語」に翻訳する
米国のメディケイド労働要件をめぐる議論から、日本が学べることは何でしょうか。いくつか整理してみます。
第一に、「免除規定があるから大丈夫」は大丈夫ではない、ということ。アーカンソー州の事例が示したように、制度上は免除対象であっても、手続きの複雑さによって実質的に排除される人が出ます。日本の福祉制度でも、「申請主義」の壁——つまり「自分から申請しなければ支援が届かない」という構造は根深い課題です。制度を設計するときには、「最も手続きが困難な人」を基準に考える必要があります。
第二に、就労支援と就労強制は違う、ということ。就労支援は、本人の希望と状態に合わせて、段階的に、伴走的に行われるものです。一方、就労強制は、一律の基準で「やらなければ不利益を受ける」という形で行われます。日本の就労系福祉サービスが、報酬改定のたびに「成果主義」に傾いていくことへの懸念は、ここにつながります。
第三に、当事者の声を制度設計に組み込む仕組みが不可欠だ、ということ。米国では、メディケイドの労働要件に対して当事者団体が訴訟を起こし、一部の州で差し止めを勝ち取った経験があります。声を上げられる環境があること自体が、制度の安全弁になるのです。
小さな希望のありか
重たい話が続きました。でも、最後に一つ、希望の話をさせてください。
日本各地で、障害のある人の「働く」を、もっと柔軟に、もっとその人らしく実現しようとする取り組みが生まれています。週に数時間だけ、自分のペースで農作業をする。得意なイラストを描いて、それが商品になる。カフェの一角で、自分の役割を持つ。「月80時間」という数字では測れない、でも確かにその人の暮らしを豊かにしている「働く」の形があります。
制度は、こうした多様な「働く」を支えるためにあるはずです。「働け」と追い立てるためではなく、「働きたい」と思ったときに手を差し伸べるためにある。その順番を間違えないことが、米国の事例から私たちが受け取るべき、いちばん大切な教訓ではないかと思います。
誰かの日常が、制度のせいで少し暗くなるのではなく、制度のおかげで少し明るくなる。そんな福祉のあり方を、これからも一緒に考えていけたらと思います。
(参考:米国メディケイド・メディケアサービスセンター(CMS)資料、アーカンソー州メディケイド労働要件に関するKaiser Family Foundation報告、厚生労働省 被保護者調査、障害福祉サービス等報酬改定資料、国連障害者権利委員会 対日審査総括所見(2022年))
参照元(出典)
- CMS Launches Nationwide Framework to Implement Medicaid Work Requirements(cms.gov)
- Medicaid Community Engagement Requirement for Certain Individuals Interim Final Rule with Comment Period (CMS-2454-IFC)(cms.gov)
- 第156回 社会保障審議会 障害者部会(令和8年6月5日開催予定)(wam.go.jp)
- 被保護者調査(令和8年3月分概数)(mhlw.go.jp)
- 第6回医療扶助・健康管理支援等に関する検討会の開催について(報道発表)(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

福祉制度・法律分野に詳しく、事業者や支援者、当事者にとって実践的な記事の執筆を行っている。複雑な制度の背景や目的まで丁寧に読み解くことを得意とする。