補装具の「基準額」が数千円変わるとき──車いすユーザーの外出半径はどれだけ動くのか

補装具の「基準額」が数千円変わるとき──車いすユーザーの外出半径はどれだけ動くのか

「あと5,000円あれば、あの車いすが選べたのに」

補装具を選ぶとき、当事者が最後に直面するのは「基準額の壁」だ。身体に合う車いすが見つかっても、公費で支給される上限額──いわゆる基準額──を超えた分は自己負担になる。その差額が5,000円なのか、3万円なのかで、選べる製品が変わり、座り心地が変わり、外出できる距離が変わる。補装具とは、身体の一部であると同時に、生活圏の輪郭を決めるものでもある。

2026年7月15日、厚生労働省は「補装具の種目、購入又は修理に要する費用の額の算定等に関する基準」の一部改正案を公示し、パブリックコメントの募集を開始した。あわせて補装具評価検討会の開催も予定されている。制度の文言としては地味な改正に見えるかもしれない。しかし、この数字の書き換えが、全国およそ50万人以上とされる補装具支給決定を受けている人々の「明日の移動」に直結する。本稿では、基準額改正の中身を読み解きながら、当事者の暮らしへの影響を考えたい。

基準額とは何か──制度の仕組みをおさらいする

補装具費支給制度は、障害者総合支援法に基づき、身体障害のある人が日常生活や就労に必要な補装具(義肢、装具、車いす、補聴器、座位保持装置など)を購入・修理する際に、その費用を公費で支給する仕組みだ。利用者の自己負担は原則1割で、所得に応じた月額上限が設定されている。

ここで重要なのが「基準額」の存在だ。厚生労働省告示で種目ごとに定められた上限額であり、公費が支給されるのはこの基準額の範囲内に限られる。たとえば普通型車いすの基準額がおよそ10万円台後半に設定されている場合、それを超える製品を選べば差額はすべて自費になる。軽量化やクッション性能、フレームの耐久性といった「暮らしの質」に直結する要素は、往々にしてこの基準額のラインの少し上にある。

基準額は物価変動や技術革新を反映して定期的に見直されるが、その改定幅は数千円から数万円の単位であることが多い。一見すると小さな数字だ。しかし、当事者にとっては「手が届くか届かないか」の境界線が動くことを意味する。

数千円が外出半径を変える──ある車いすユーザーの試算

具体的に考えてみよう。脊髄損傷で日常的に車いすを使う30代の会社員・Aさん(仮名)は、5年ごとに車いすを更新している。現在使っているのは基準額ぎりぎりで選んだ標準的なモデルだ。体格に合ったフレームサイズではあるが、重量が約15kgあり、電車の乗り降りや段差の多い街中での取り回しに苦労している。

一方、Aさんが本当に使いたいのは、アルミ合金フレームで約10kgの軽量モデルだ。価格差はおよそ3万円。基準額を超える分は自己負担となるため、Aさんは毎回この3万円を工面できるかどうかで悩む。障害基礎年金2級の月額は約6万8,000円。就労収入と合わせても、5年に一度とはいえ3万円の追加出費は家計に響く。

もし今回の基準額改正で1万円でも引き上げがあれば、Aさんの自己負担は2万円に減る。さらに数千円の上乗せがあれば、選択肢はもう一段広がる。軽い車いすは単に「楽になる」だけではない。外出時の疲労が減れば行動範囲が広がり、通勤の安定性が増し、休日に出かける気力が残る。Aさんは「車いすが500g軽くなると、帰りの電車で一駅分遠くまで行ける気がする」と話す。数千円の基準額の差は、こうして生活圏の半径を物理的に広げたり狭めたりする。

補聴器、義足──車いす以外への波及

基準額の改正は車いすだけの話ではない。補聴器の基準額は片耳あたり約5万円台が上限とされるケースがあるが、近年のデジタル補聴器は10万円を超える製品も珍しくない。雑音抑制や会話強調といった機能は、職場でのコミュニケーションや安全確認に直結するにもかかわらず、基準額内では旧世代の製品しか選べないという声は根強い。

義足についても同様だ。膝継手(ひざつぎて)の種類によって歩行の安定性は大きく変わるが、高機能な油圧式やコンピュータ制御の膝継手は基準額を大幅に超えることがある。結果として、転倒リスクの低い製品を自費で購入できる人とできない人の間に「安全格差」が生まれている。今回の改正がどの種目にどの程度の引き上げをもたらすのか、告示の細部に注目する必要がある。

海外の補装具給付──日本に持ってくるなら何が必要か

しばしば引き合いに出されるのが、北欧やドイツの補装具給付制度だ。たとえばスウェーデンでは、補装具は医療の一環として県(ランスティング)が提供し、利用者の自己負担は原則ゼロに近い。ドイツでは法定疾病金庫(公的医療保険)が補装具費用を広くカバーし、必要性が認められれば高機能な電動車いすも給付対象になる。

ただし、これらの制度をそのまま日本に移植することは現実的ではない。スウェーデンの高福祉は高い税負担と表裏一体であり、国民負担率は約60%に達する(日本は約48%前後)。ドイツの疾病金庫制度も、保険料率の上昇が政治的課題になっている。

日本で参考にすべきは、むしろ「基準額の設定プロセス」かもしれない。ドイツでは補装具の給付基準を定める際に、当事者団体や医療専門職が審議に参加し、製品の技術水準と利用者のニーズを突き合わせて基準を更新する仕組みが整っている。日本の補装具評価検討会も専門家による議論の場ではあるが、当事者の参画がどこまで保障されているかは常に問い直されるべきだろう。「私たちのことを私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」の原則は、まさにこうした基準額の設定場面でこそ試される。

補装具評価検討会──注目すべき論点

補装具評価検討会の開催が予定されている。この検討会は、補装具の種目や基準額の妥当性を技術的・医学的に評価する場だ。近年の検討会では、以下のような論点が繰り返し議論されてきた。

  1. 技術革新と基準額のタイムラグ——補装具の素材や設計技術は年々進歩しているが、基準額の見直しはそのスピードに追いついていない。カーボンファイバー製のフレームや3Dプリンティングによるカスタムソケットなど、10年前には高嶺の花だった技術が量産化で価格が下がっても、基準額に反映されるまでに数年かかることがある。
  2. 耐用年数の見直し——現行制度では補装具ごとに耐用年数が定められており、その期間内は原則として再支給を受けられない。しかし、成長期の子どもや、活動量の多い就労世代にとっては、耐用年数前に補装具が体に合わなくなるケースが少なくない。基準額だけでなく、耐用年数の柔軟化も暮らしに直結するテーマだ。
  3. オーダーメイドとレディメイドの線引き——既製品(レディメイド)の性能向上により、オーダーメイドとの境界が曖昧になっている。基準額の設定においてどちらを基準とするかで、支給額は大きく変わる。

これらの論点がどう議論されるのか。検討会の議事録は厚生労働省のウェブサイトで公開されるため、関心のある方はぜひ確認してほしい。

基準額の向こう側にある暮らし

補装具費用基準の改正は、告示の数字が書き換わるだけの話ではない。その数字の向こうには、明日の通勤で使う車いすの重さに悩む人がいる。職場の会議で聞こえない言葉に唇を読もうとする人がいる。成長した子どもの義足が合わなくなり、次の支給まであと1年を数える親がいる。

基準額が数千円上がったからといって、すべてが解決するわけではない。しかし、その数千円が「あと一歩」を可能にすることがある。外出の半径が500メートル広がること、会議の会話が一つ多く聞き取れること、子どもが転ばずに学校まで歩けること──制度の数字は、そういう一つひとつの暮らしの場面に変換されて初めて意味を持つ。

参照元(出典)

  1. 補装具の種目、購入等に要する費用の額の算定等に関する基準の一部を改正する件について(public-comment.e-gov.go.jp)
  2. 第77回補装具評価検討会 開催案内(mhlw.go.jp)
  3. 第76回補装具評価検討会 開催案内(mhlw.go.jp)

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