
ある相談員が語った「たらい回し」の風景
精神保健福祉士として働く知人が、こんなことを言っていた。
「うつで休職した方が、復職できずに障害者手帳を取得したとき、相談先がガラッと変わるんです。昨日まで産業保健の窓口にいた人が、今日から障害福祉の窓口に行かなきゃいけない。でも本人の苦しさは、昨日と今日で何も変わっていないのに」
この言葉が、ずっと頭に残っている。
NHKハートネットが「働く人のメンタルヘルスに関する悩み・困りごとを聞かせてください」という呼びかけを行っている。厚生労働省も毎年10月10日の世界メンタルヘルスデーに合わせて特設サイトを開設し、啓発に力を入れている。こうした動きは大切だ。でも、ふと立ち止まって考えてしまう。「働く人のメンタルヘルス」と「福祉としてのメンタルヘルス」が、なぜ別々の入り口から始まるのだろう、と。
今日は、この「制度の継ぎ目」について考えてみたい。
3つの窓口、3つの法律、3つの「あなたは誰?」
日本のメンタルヘルス支援体制を整理すると、大きく3つの流れがある。
① 労働者向け(産業保健)
根拠法は労働安全衛生法。企業の産業医やEAP(従業員支援プログラム)、労働基準監督署の相談窓口などが担う。2015年から従業員50人以上の事業所にストレスチェックが義務化された。対象は「雇用されている労働者」だ。
② 障害福祉向け
根拠法は障害者総合支援法。精神障害者保健福祉手帳を持つ人、あるいは自立支援医療を利用する人が主な対象となる。就労継続支援A型・B型、就労移行支援、地域活動支援センターなどがここに含まれる。
③ 一般向け(地域保健)
根拠法は精神保健福祉法や自殺対策基本法。保健所や精神保健福祉センターが窓口となり、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)などが設けられている。
この3つは、それぞれ別の省庁の別の部局が所管し、別の予算で動いている。利用する人の側から見れば、自分が「労働者」なのか「障害者」なのか「住民」なのかによって、たどり着く窓口が違う。しかし、メンタルヘルスの問題を抱える人は、たいていこれらの境界線の上に立っている。
働きながら精神科に通っている人。休職中で、復職できるかわからない人。障害者雇用で働いているけれど、職場の悩みは「産業保健」の枠組みでは拾われにくい人。フリーランスや非正規雇用で、そもそも「労働者向け」の支援の網にかからない人。
制度は「あなたは誰ですか?」と問うけれど、本人は「ただ、しんどいんです」と答えるしかない。
数字が語る「届かない支援」
厚生労働省の「労働安全衛生調査(実態調査)」(2022年)によれば、仕事や職業生活に関して強い不安やストレスを感じている労働者の割合は82.2%にのぼる。約5人に4人が何らかのストレスを抱えている計算だ。
一方で、メンタルヘルス対策に取り組んでいる事業所の割合は63.4%。つまり、3分の1以上の職場では、組織的なメンタルヘルス対策がそもそも存在しない。特に従業員30人未満の小規模事業所では、ストレスチェックの義務もなく、産業医の選任義務もない。日本の労働者の約7割が中小企業に勤めていることを考えると、「産業保健」の網の目から漏れている人は決して少なくない。
では、漏れた人はどこに行くのか。
精神保健福祉センターは全国に69カ所。保健所は約468カ所(2023年時点)。人口10万人あたりの精神保健福祉相談員の数は、自治体によって大きな開きがある。相談したくても、予約が2〜3週間先ということも珍しくない。
「適切な相談窓口にたどり着けない」という問題は、窓口が少ないことだけでなく、「自分がどの窓口に行けばいいかわからない」という情報の断層からも生まれている。厚生労働省の「こころの健康についての疫学調査」では、精神疾患の基準を満たす人のうち、実際に医療機関を受診しているのは約4割にとどまるとされている。6割の人が、しんどさを抱えたまま、どこにもつながっていない。
この6割の人たちは、統計上は「労働者」かもしれないし、「障害者」にはまだなっていないかもしれない。制度の言葉で言えば「対象外」。でも、暮らしの言葉で言えば「助けが必要な人」だ。
欧州の「権利ベース」アプローチから見えるもの
欧州のメンタルヘルス政策を牽引するMental Health Europe(MHE)は、支援の枠組みを「権利ベース(rights-based approach)」で再構築することを提唱している。
このアプローチの核にあるのは、国連障害者権利条約(CRPD)の考え方だ。メンタルヘルスの問題を「医療モデル(治すべき病気)」ではなく「社会モデル(社会の側に障壁がある)」で捉え、支援を受けることを「施し」ではなく「権利」として位置づける。
具体的に何が違うのか。
日本の現行制度では、支援を受けるために「診断名」や「手帳の等級」や「雇用形態」といったラベルが必要になる。ラベルによって入れる窓口が決まり、使えるサービスが決まる。
MHEが提唱するモデルでは、「その人が今、何に困っているか」を起点にする。雇用されているかどうか、手帳を持っているかどうかに関わらず、必要な支援にアクセスできる仕組みを目指す。ベルギーやイタリアの一部地域では、精神科医療・就労支援・住居支援・ピアサポートを一つのチームが包括的に提供する「コミュニティベースのメンタルヘルスケア」が実践されている。
もちろん、欧州の制度をそのまま日本に持ってくることはできない。社会保障の財源構造も、雇用慣行も、精神科医療の歴史も異なる。日本には日本の文脈がある。
ただ、一つだけ確実に言えることがある。「あなたは誰ですか」ではなく「あなたは今、何に困っていますか」から始まる窓口は、日本でも作れるはずだ、ということ。
「継ぎ目」を埋める小さな実践
制度の大改革を待つだけでは、目の前の人を支えられない。だから、現場ではすでに「継ぎ目」を埋めようとする実践が始まっている。
たとえば、一部の地域では「断らない相談支援」を掲げる重層的支援体制整備事業(2021年度〜)が動き出している。これは、介護・障害・子育て・生活困窮といった分野を横断して、一つの窓口で相談を受け止める仕組みだ。2023年度時点で全国189自治体が実施している。メンタルヘルスの相談がここに含まれるかどうかは自治体によるが、「制度の縦割りを超える」という方向性は、まさにこの問題の核心に触れている。
また、産業保健と地域保健の連携を模索する動きもある。休職者が復職できずに離職した場合、産業医からかかりつけ医へ、かかりつけ医から地域の支援機関へと情報が引き継がれる仕組みがあれば、「制度の継ぎ目」で人が落ちることを防げる。まだ全国的な標準にはなっていないが、一部の自治体や医療機関では試行が始まっている。
「どの窓口に行けばいいかわからない」をなくすために
最後に、読者の方に伝えたいことがある。
もし今、メンタルヘルスの悩みを抱えていて、「自分はどこに相談すればいいんだろう」と迷っているなら、まずはどこでもいいから一つ、連絡してみてほしい。「ここは対象外です」と言われたとしても、まともな相談窓口であれば、次に行くべき場所を教えてくれる。あなたが制度を理解する必要はない。制度の側が、あなたに歩み寄るべきだから。
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
- よりそいホットライン:0120-279-338(24時間対応)
- まもろうよ こころ(厚生労働省特設サイト):各種相談窓口の一覧あり
制度の継ぎ目は、一朝一夕には埋まらない。でも、「この人は労働者だから」「この人は障害者だから」というラベルの前に、「この人は今、つらいのだ」という事実がある。その事実から出発する支援の形を、私たちは諦めずに求めていきたい。
NHKハートネットの呼びかけに寄せられる声の一つひとつが、制度の継ぎ目に光を当てる。その声は、「働く人」の声であると同時に、「生きている人」の声だ。分けなくていい。分けなくていいはずだ。
参照元(出典)
- ハートネット | NHK(heart-net.nhk.or.jp)
- 世界メンタルヘルスデー JAPAN 2026 特設サイト(mhlw.go.jp)
- Mental Health Europe: Advocacy & Support for Well-being(mentalhealtheurope.org)
執筆者プロフィール

メンタルヘルス、精神疾患に関する情報発信を中心に活動。医療や福祉制度の解説に加え、当事者や家族が抱える悩みに寄り添った記事を得意とする。