
はじめに——ある日突然、使い慣れたサービスが使えなくなる
障害のある方が65歳の誕生日を迎えた途端、それまで利用してきた障害福祉サービスが「介護保険に切り替えてください」と言われる——。
これは仮定の話ではありません。日本の法律に基づいて、実際に起きていることなんです。
障害者総合支援法の第7条には、いわゆる「介護保険優先原則」が定められています。障害福祉サービスと介護保険サービスに重複する部分がある場合、原則として介護保険サービスを優先的に使わなければならない、というルールです。
この原則によって、65歳を境にサービスの内容が変わったり、自己負担が急増したり、長年の信頼関係があったヘルパーさんと離れなければならなくなったりする。当事者の方々はこれを「65歳の壁」や「制度の崖」と呼んでいます。
今回は、この介護保険優先原則について、制度の仕組みから歴史的背景、海外との比較、そしてこれからの課題まで、じっくり掘り下げていきます。
1. この制度って何?——介護保険優先原則をかみ砕いて説明します
二つの制度が「重なる」ところに問題がある
日本には、大きく分けて二つの公的サービス体系があります。
- 障害福祉サービス(障害者総合支援法に基づく):年齢に関係なく、障害のある方が対象。居宅介護、重度訪問介護、就労継続支援、グループホームなど。
- 介護保険サービス(介護保険法に基づく):原則65歳以上の方(特定疾病の場合は40歳以上)が対象。訪問介護、通所介護、特別養護老人ホームなど。
この二つの制度には、訪問介護や通所介護など機能が重なるサービスがあります。介護保険優先原則とは、「重なる部分については介護保険を先に使ってください」という決まりのことです。
具体的に何が変わるのか
65歳を境に、当事者の暮らしには次のような変化が起こり得ます。
- 自己負担の発生・増加:障害福祉サービスでは住民税非課税世帯の場合、利用者負担はゼロ。しかし介護保険では原則1割(所得に応じて2〜3割)の自己負担が発生します。月額で数千円〜数万円の負担増になるケースもあります。
- サービス量の減少:障害福祉サービスでは個別の必要性に応じて支給量が決まりますが、介護保険では要介護度ごとに支給限度額が設定されています。たとえば要介護3の場合、区分支給限度基準額は月額約27万480円(2024年度)。これまで月100時間以上の重度訪問介護を使っていた方が、介護保険の枠内では到底足りない、という事態が起こるのです。
- 支援者の交代:事業所が介護保険の指定を受けていなければ、長年付き合ってきたヘルパーさんが担当できなくなることもあります。障害特性を理解してくれていた支援者との関係が断たれる——これは数字には表れにくい、しかし当事者にとっては切実な問題です。
なお、2018年の法改正で「新高額障害福祉サービス等給付費」という制度が創設され、65歳になる前に5年以上障害福祉サービスを利用していた低所得の方については、介護保険の自己負担分が償還される仕組みができました。ただし対象要件が厳しく、「救済されない人が多い」という声が根強く残っています。
2. なぜこの制度は生まれたのか——「保険優先」の歴史的背景
介護保険の誕生と「普遍主義」の理念
2000年に介護保険制度がスタートしたとき、その理念は「介護の社会化」でした。それまで家族(とりわけ女性)に押し付けられていた介護を、社会全体で支える仕組みにしよう。40歳以上の全国民が保険料を払い、必要になったら誰でもサービスを使える——そういう「普遍的な社会保険」として設計されたのです。
社会保険である以上、保険料を払っている人が給付を受けるのが筋だ、という考え方があります。そこから、「税財源の障害福祉サービスよりも、保険料財源の介護保険を優先すべき」という論理が生まれました。これが介護保険優先原則の根っこにある考え方です。
「65歳」という線引きの矛盾
しかし、この原則には根本的な矛盾があります。
障害福祉サービスは「障害に起因する生活上の困難」に対応するもの。介護保険は「加齢に伴う心身の変化」に対応するもの。そもそも制度の目的が違うんです。
65歳になったからといって、障害がなくなるわけではありません。脳性まひの方は65歳になっても脳性まひですし、視覚障害のある方の目が見えるようになるわけでもない。なのに、「65歳になったから介護保険で」と言われる。ここに当事者の方々の強い違和感と怒りがあるのです。
浅田訴訟——司法が示した重要な判断
この問題を社会に突きつけたのが、浅田達雄さんの訴訟(通称「浅田訴訟」)です。
岡山市に住む浅田さんは、幼少期から重度の障害があり、障害福祉サービスの居宅介護を自己負担なしで利用していました。ところが65歳になった際、岡山市は介護保険の申請をしなかったことを理由に、障害福祉サービスの支給を打ち切りました。
2018年、広島高裁岡山支部は、岡山市の処分を違法と判断。介護保険の申請をしなかったことだけを理由に障害福祉サービスを打ち切ることは許されない、と明確に述べました。この判決は最高裁で確定し、全国の自治体に大きな影響を与えました。
この訴訟は、制度の運用が当事者の生活を脅かしている現実を、司法の場で可視化した画期的なケースだったと言えます。
3. 海外ではどうしているか——「年齢で切る」のは日本だけ?

ドイツ:介護保険はあるが、障害者支援は別建てで継続
ドイツは日本の介護保険制度のモデルになった国です。1995年に介護保険(Pflegeversicherung)を導入しました。
しかしドイツでは、障害者に対する「統合扶助(Eingliederungshilfe)」という支援体系が、年齢に関係なく継続されます。2020年に施行された連邦参加法(BTHG)により、障害者支援は介護保険とは明確に分離され、障害のある人が高齢になっても必要な支援が途切れない仕組みが強化されました。
つまり、介護保険の「先輩」であるドイツでさえ、障害者支援を介護保険に吸収するという発想は取っていないのです。
フランス:年齢による区分はあるが、給付水準を維持
フランスでは、60歳未満の障害者には障害補償給付(PCH:Prestation de Compensation du Handicap)が、60歳以上には個別自律手当(APA:Allocation Personnalisée d’Autonomie)が適用されます。
年齢による制度の切り替え自体はフランスにも存在しますが、APAは所得に応じた負担設計がなされており、低所得者の自己負担は軽減されます。また、60歳以前からPCHを受けていた人は、60歳以降もPCHを継続するかAPAに移行するかを自分で選択できる仕組みになっています。当事者に選択権がある、という点が日本との大きな違いです。
スウェーデン:そもそも「年齢で制度を分けない」
スウェーデンでは、障害者向けの支援はLSS法(特定の機能障害を持つ人への支援・サービスに関する法律)に基づいて提供され、年齢による制限は原則ありません。パーソナルアシスタンス制度により、重度障害のある人は年齢を問わず、自分で選んだアシスタントから支援を受け続けることができます。
日本の「当たり前」は世界の「当たり前」ではない
こうして見ると、65歳で障害福祉サービスを介護保険に切り替えさせるという仕組みは、国際的に見ても特異なものだということが分かります。障害者権利条約第19条は「自立した生活及び地域社会への包容」を謳っており、年齢を理由にサービスの質や量が低下することは、この条約の趣旨に反するのではないか——そういう問題提起がなされているのです。
4. 私たちが考えなくてはいけないこと
「制度の崖」をどう埋めるか
2024年4月の障害者総合支援法改正や介護保険制度の見直し議論の中で、この問題への対応は少しずつ進んではいます。厚生労働省も通知(2007年の「障害者自立支援法に基づく自立支援給付と介護保険制度との適用関係等について」、その後の改正通知)で、「一律に介護保険を優先するのではなく、個々の状況に応じて判断すること」と示しています。
しかし現場では、自治体ごとの運用にばらつきが大きいのが実情です。「うちの市では介護保険を申請しないと障害福祉サービスは出せません」と窓口で言われた、という声は今も後を絶ちません。
DPI日本会議をはじめとする当事者団体は、介護保険優先原則の廃止を一貫して求めています。2022年に国連の障害者権利委員会が日本に対して出した総括所見(勧告)でも、障害者が高齢になった際のサービス低下について懸念が示されました。
問われているのは「誰のための制度か」
この問題の本質は、制度の都合で人の暮らしが左右されてしまう、ということにあります。
制度は本来、人の暮らしを支えるためにあるはずです。なのに、「あなたは65歳になったから、こちらの制度に移ってください」と言われ、これまでの生活が崩れてしまう。それは制度が人に合わせるのではなく、人が制度に合わせさせられている状態ではないでしょうか。
障害者権利条約の合言葉、「Nothing About Us Without Us(私たちのことを、私たち抜きに決めないで)」。この原則に立ち返れば、制度の設計段階から当事者の声を反映させること、そして年齢にかかわらず必要な支援が途切れない仕組みをつくることが求められているのだと思います。
読者のみなさんへ
「自分はまだ若いから関係ない」と思われるかもしれません。でも、介護保険料は40歳から徴収されますし、障害は誰にでも、いつでも起こり得るものです。そして、いま目の前で困っている方がいます。
この「65歳問題」は、障害のある方だけの問題ではなく、社会保障制度全体のあり方を問う問題です。介護保険と障害福祉サービスを縦割りのまま放置するのか、それとも一人ひとりの暮らしを中心に据えた制度に組み替えていくのか。その選択は、私たちの社会の姿そのものを映し出しています。
もう少し知りたい方へ
厚生労働省「障害福祉サービスと介護保険制度の適用関係」:制度の公式な解説と通知文書が確認できます。 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/shougaishahukushi/
DPI日本会議「介護保険優先原則の問題」:当事者団体の立場からの問題提起と政策提言がまとめられています。 https://www.dpi-japan.org/
参照元(出典)
- 介護保険最新情報Vol.1502(wam.go.jp)
- 私たちの活動 | DPI日本会議(dpi-japan.org)
- 障害者施策|政策統括官(共生・共助担当)- 内閣府(www8.cao.go.jp)
- 介護保険最新情報Vol.1503(PDF:177KB)(wam.go.jp)
執筆者プロフィール

介護や高齢者問題に関する執筆を多数担当。介護に携わる家族や支援者の視点を大切にしながら、現場で役立つ情報をわかりやすく発信している。