欧州の「権利ベース」が問いかけるもの——日本の精神保健は「入院ありき」から抜け出せるか

欧州の「権利ベース」が問いかけるもの——日本の精神保健は「入院ありき」から抜け出せるか

ある精神科病院に20年以上入院している男性がいる。退院したいと願っているが、地域に帰る場所がない。受け入れてくれるグループホームは満床で、一人暮らしを支えるヘルパーの手配もつかない。彼の「退院したい」という声は、制度の隙間に吸い込まれていく——。こうした風景は、日本の精神保健の現場では決して珍しくない。

一方、欧州では精神障害のある人の暮らしを「権利」の問題として捉え直す動きが加速している。Mental Health Europe(MHE)や欧州障害フォーラム(EDF)が牽引するこの潮流は、2025年のWHO総会でも大きな議題となった。入院中心から地域生活へ——その転換を「権利」という言葉で語る欧州の取り組みから、日本に何が見えてくるのか。制度の数字の向こうにある「一人ひとりの朝」を想像しながら、考えてみたい。

欧州が掲げる「権利ベース」のメンタルヘルス

Mental Health Europe(MHE)は、欧州最大の精神保健に関するNGOネットワークであり、「Equal Rights(平等な権利)」をスローガンに掲げている。2025年6月にブリュッセルで開催された年次総会では、精神障害のある人が地域社会の中で暮らし、働き、意思決定に参加する権利の保障が中心テーマとなった。特に注目されたのは、「強制入院・強制治療をいかに減らすか」という議論だ。

EDFも同様に、国連障害者権利条約(CRPD)第19条——「地域社会で生活する権利」——を根拠に、精神科病院への長期収容を人権侵害として位置づける声明を繰り返し発表している。EDFの2025年の政策提言では、各国政府に対して精神科病床の段階的削減と、地域ベースの支援サービスへの財政移転を求めた。

こうした動きの背景には、イタリアの「バザーリア法」(1978年)以来の脱施設化の歴史がある。イタリアは公立精神科病院を全廃し、地域精神保健センターを中心とした支援体制に移行した。その結果、精神科病床数は人口1万人あたり約1床にまで減少している。もちろん課題がないわけではない。南部では地域サービスの質にばらつきがあり、家族への負担が集中するケースも報告されている。それでも「入院ではなく地域で」という原則が社会に根づいている点は、日本と大きく異なる。

WHO総会でも、2025年の議題として精神保健の「権利ベースアプローチ」が取り上げられた。WHOは2021年に発表した「世界メンタルヘルス報告書」の中で、世界の精神保健予算の約70%が精神科病院に費やされている現実を指摘し、地域サービスへの再配分を強く求めている。この数字は、制度の構造そのものが「入院ありき」になっていることを物語っている。

日本の精神保健——数字が語る「入院大国」の現実

日本に目を転じると、精神科病床数は世界でも突出して多い。厚生労働省の「患者調査」(2023年)によれば、精神疾患による入院患者数は約26.1万人。人口1万人あたりの精神科病床数は約26床で、OECD平均(約7床)の3倍以上にのぼる。しかもそのうち約6割が1年以上の長期入院であり、5年以上の入院も珍しくない。

この数字を「人の暮らし」に翻訳してみよう。26万人とは、地方の中核都市ひとつ分の人口に匹敵する。それだけの人が、病院の中で朝を迎え、病院の中で夜を過ごしている。退院を望んでいても、地域に受け皿がないために退院できない「社会的入院」の問題は、何十年も前から指摘されてきた。にもかかわらず、その構造は根本的には変わっていない。

精神保健福祉に関する国の予算を見ても、病院への診療報酬が大きな割合を占め、地域生活を支える訪問看護や相談支援、グループホームへの投資は限定的だ。2024年度の障害福祉サービス等報酬改定では、地域移行支援の報酬が若干引き上げられたものの、現場からは「焼け石に水」という声が聞こえてくる。地域移行支援の利用者数は全国で年間約3,500人程度にとどまっており、26万人という入院患者数との落差は歴然としている。

さらに深刻なのは地域格差だ。精神科訪問看護ステーションの数は都市部に集中しており、地方では精神障害のある人が地域で暮らすためのサービスそのものが存在しない地域もある。ある地方の相談支援専門員は「退院先を探すのに半年以上かかることもある。空きがないのではなく、そもそも選択肢がない」と語る。

「権利」の視点で見ると何が変わるのか

欧州の「権利ベースアプローチ」が日本に問いかけているのは、精神障害のある人の地域生活を「福祉サービスの充実」という枠組みだけで語っていいのか、ということだ。

日本は2014年に国連障害者権利条約を批准した。条約第19条は「すべての障害者が、他の者と平等に、居住地を選択し、どこで誰と生活するかを選択する機会を有すること」を求めている。2022年に国連障害者権利委員会が日本に対して出した「総括所見」では、精神科病院における長期入院の問題が明確に指摘され、「脱施設化のための具体的な計画と期限を設けること」が勧告された。

DPI日本会議をはじめとする当事者団体は、この勧告を受けて精神科病院からの地域移行を加速させるよう政府に働きかけている。しかし、日本政府の対応は緩やかだ。2024年4月に施行された改正精神保健福祉法では、医療保護入院の見直しや虐待防止措置の強化が盛り込まれたものの、「脱施設化の期限」は設定されなかった。

権利の視点で見ると、問題の本質が見えてくる。現在の日本の制度は、精神障害のある人が「地域で暮らしたい」と望んだとき、その願いを実現するための法的な権利保障が弱い。介護保険のように「申請すればサービスが使える」という仕組みとは異なり、精神障害者の地域生活支援は自治体の裁量や予算状況に大きく左右される。ある自治体では手厚い支援が受けられても、隣の自治体では何もない——そんな「支援の郵便番号格差」が存在している。

欧州の取り組みを日本に持ってくるなら——何が必要か

イタリアやベルギーの脱施設化モデルをそのまま日本に移植することはできない。医療制度の構造、民間精神科病院の割合(日本では精神科病床の約9割が民間)、地域コミュニティの性質が異なるからだ。

しかし、欧州の経験から学べることは少なくない。

第一に、「期限付きの脱施設化計画」の策定だ。国連の勧告にもある通り、「いつまでに、どの程度、地域移行を進めるのか」という具体的な目標がなければ、現状は変わらない。欧州諸国では、精神科病床の削減目標と地域サービスの整備目標をセットで設定している国が多い。

第二に、予算の「見える化」と再配分だ。精神保健に関する公的支出のうち、病院に向かう金額と地域サービスに向かう金額の比率を明示し、段階的に地域へシフトさせる仕組みが必要だ。WHOが指摘する「予算の70%が病院に集中」という構造は、日本にもそのまま当てはまる可能性が高い。

第三に、当事者の声を政策決定に組み込む仕組みだ。MHEの活動の特徴は、精神障害の当事者が政策提言の主体となっている点にある。「私たちのことを私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」——この原則は、日本の精神保健政策においてもまだ十分に実現されていない。審議会の委員構成や、計画策定プロセスへの当事者参画を制度的に保障することが求められる。

小さな希望のありか

悲観ばかりではない。日本でも変化の芽は確かにある。

北海道浦河町の「べてるの家」は、精神障害のある人たちが地域の中で働き、暮らし、自分たちの言葉で経験を語る「当事者研究」の実践で知られる。大阪では、精神科訪問看護と地域の居場所づくりを組み合わせた取り組みが広がりつつある。こうした実践は、制度の外側から「地域で暮らすとはどういうことか」を示してきた。

また、2024年度の報酬改定で新設された「地域移行・地域定着支援の強化加算」は、小さいながらも地域生活を支える方向への一歩だ。これを「焼け石に水」で終わらせるか、次の改定につなげる足がかりにするかは、現場と政策をつなぐ声の力にかかっている。

26万人の入院患者一人ひとりに、名前があり、暮らしがあり、「こうありたい」という願いがある。その願いを「権利」として受け止め、制度に翻訳していくこと。それは、精神障害のある人だけの問題ではなく、私たちがどんな社会で暮らしたいかという問いそのものだ。

欧州から届く「権利ベース」の風は、日本の精神保健の窓をほんの少し開けようとしている。その風を、現場の声とともに、もっと大きな流れに変えていけるか。私たちはその分岐点に立っている。

参照元(出典)

  1. Mental Health Europe: Advocacy & Support for Well-being(mentalhealtheurope.org)
  2. 第79回WHO総会結果(概要)(mhlw.go.jp)
  3. Homepage – European Disability Forum(edf-feph.org)
  4. 私たちの活動 | DPI日本会議(dpi-japan.org)

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