
朝7時、診察券より先に握りしめるもの
朝7時。バスに乗って病院に向かう前に、まずファイルを開く。診断書のコピー、受給者証、前回の処方記録、意見書の控え——。通院のたびにこれだけの紙を揃えなければならない人がいます。障害のある人にとって「病院に行く」という行為は、診察室に座るずっと前から始まっています。
いま、アメリカでは医療サービスの事前承認を電子化する「ePA(Electronic Prior Authorization)」の仕組みが本格的に動き出しています。一方、日本では自立支援医療の申請や更新、障害福祉サービスの利用に必要な診断書・意見書の山が「診断書地獄」と呼ばれ、当事者や家族、医療機関の大きな負担になり続けています。
海の向こうの制度改革は、日本の「書類の壁」を崩すヒントになるのでしょうか。制度の中身を丁寧に見ながら、「あの人の朝」がどう変わりうるかを考えてみます。
アメリカで何が始まっているのか——ePAの仕組み
アメリカの公的医療保険を所管するCMS(Centers for Medicare & Medicaid Services/メディケア・メディケイドサービスセンター)は、2024年に事前承認の電子化に関する最終規則を公表し、2027年1月までにメディケイド(低所得者向け公的医療保険)やCHIP(児童医療保険プログラム)などの公的保険プランに対して電子事前承認への対応を義務づける方針を打ち出しました。2025年には早期採用者(アーリーアダプター)となる保険プランの公募・選定が進んでいます。
事前承認(Prior Authorization)とは何か
そもそも事前承認とは、医師が患者に特定の治療・検査・処方を行う前に、保険者(保険会社や公的保険プラン)から「この治療は保険でカバーしますよ」という許可を得る手続きです。アメリカでは民間保険を中心にこの仕組みが広く使われており、医師が治療方針を決めても、保険者の承認が下りなければ患者は全額自己負担になってしまうことがあります。
問題は、この承認プロセスに膨大な時間がかかることです。米国医師会(AMA)の2023年の調査によると、医師1人あたり週に平均約14時間を事前承認関連の事務作業に費やしており、承認が下りるまでに数日から数週間かかるケースも珍しくありません。障害のある人や慢性疾患を持つ人は、複数の治療・サービスを同時に利用することが多いため、承認待ちの件数も自然と増えます。リハビリを受けたい、補装具を作りたい、専門医を受診したい——そのたびに承認待ちが発生し、必要な医療にたどり着けない「承認の壁」が生まれていました。
ePAで何が変わるのか
電子事前承認の核心は、これまでファクスや電話、紙の書類でやりとりしていた承認プロセスを、電子的な標準規格(HL7 FHIRなど)を使ってリアルタイムに近い形で処理できるようにすることです。CMSの試算では、電子化によって承認にかかる時間が従来比で最大72時間以内に短縮される見込みとされています。緊急性の高い医療サービスについては、さらに短い時間枠が設定される方向です。
また、この規則では保険者に対して「承認の却下理由を具体的に開示すること」「承認状況をリアルタイムで確認できるようにすること」も求めています。つまり、「なぜ承認されないのか分からないまま待ち続ける」という状況を制度的になくそうとしているのです。
日本の「書類の壁」——何枚の紙が暮らしを遮っているか
では、日本の状況はどうでしょうか。日本には「事前承認」という仕組みはアメリカほど明示的にはありませんが、障害のある人が医療や福祉サービスを利用するためには、驚くほど多くの書類を揃える必要があります。
自立支援医療だけでもこれだけの手続き
精神科に通院している人が医療費の自己負担を1割に軽減する「自立支援医療(精神通院医療)」を利用するには、まず医師に診断書を書いてもらい、市区町村の窓口で申請します。この診断書の作成費用は医療機関によって異なりますが、3,000円〜5,000円程度が一般的です。そして、この受給者証の有効期間は原則1年間。毎年、更新のたびに診断書を取り直し、窓口に足を運ばなければなりません(2年に1度の診断書提出でよい場合もありますが、更新申請自体は毎年必要です)。
これに加えて、障害者手帳の更新(身体障害者手帳は原則再認定なしですが、精神障害者保健福祉手帳は2年ごとに更新)、障害福祉サービスの支給決定に必要な医師意見書、障害年金の診断書(1〜5年ごとの更新)と、書類は何層にも重なります。
ある精神障害のある30代の方は、こう話してくれたことがあります。「年に何回、同じことを違う書式で書いてもらうんだろうと思う。主治医も忙しいから、診断書をお願いするのも気を遣う。お金もかかる。それで調子を崩すこともある」。
書類を揃えること自体が、体調を左右する——これが「診断書地獄」の実態です。
医療機関側の負担も深刻
書類の壁は、患者さんだけの問題ではありません。主治医は一人の患者さんに対して、自立支援医療の診断書、手帳用の診断書、年金用の診断書、就労移行支援のための意見書……と、それぞれ異なる書式で同じような内容を繰り返し記載しています。日本精神神経学会などからも、書式の統一や電子化を求める声が上がっています。
厚生労働省は2024年度からマイナンバーカードと健康保険証の一体化を進め、オンライン資格確認の基盤整備を加速させています。しかし、自立支援医療の受給者証や障害福祉サービスの受給者証がこのシステムに統合される時期は、まだ明確には示されていません。デジタル庁が進める「公金受取口座の登録」や「医療DX」の文脈で検討は進んでいるものの、当事者が実感できる変化が訪れるまでには、もう少し時間がかかりそうです。
アメリカの仕組みを日本に持ってくるなら、何が必要か

アメリカのePAの仕組みをそのまま日本に移植することはできません。そもそも医療保険の構造が大きく異なります。アメリカは民間保険が中心で保険者が多数存在するため「承認の標準化」が急務でしたが、日本は国民皆保険制度のもと、保険診療の範囲は比較的統一的に定められています。
しかし、ePAの考え方から日本が学べることは少なくありません。
1. 「同じ情報を何度も書かせない」仕組み
ePAの根幹にあるのは、医療情報を標準化されたデータとしてやりとりするという思想です。日本でも、一度医師が記載した診断情報を、自立支援医療・手帳・年金・福祉サービスの各申請に共通で使えるようにすれば、医師も患者も負担が大きく減ります。書式の統一は、技術的にはそれほど難しい話ではありません。必要なのは、省庁間の縦割りを超える意思決定です。
2. 「承認状況が見える」安心感
アメリカのePAでは、承認がどの段階にあるかをリアルタイムで確認できます。日本でも、申請した受給者証がいつ届くのか、更新手続きがどこまで進んでいるのかが分からず不安を抱える人は少なくありません。マイナポータルなどを活用して進捗を可視化するだけでも、心理的な負担はかなり軽くなるはずです。
3. 当事者が「仕組みの設計」に参加すること
CMSのePA導入プロセスでは、患者団体や障害者権利擁護団体からのパブリックコメントが制度設計に反映されています。日本でも、デジタル化の仕組みを作る段階から当事者が参加することが欠かせません。「私たちのことを、私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」——この原則は、テクノロジーの設計においても同じです。
通院の朝が変わることは、暮らし全体が変わること
障害のある人にとって、通院は「健康管理」であると同時に、生活のリズムそのものです。就労継続支援の事業所に通っている人にとっては、通院の日は仕事を休む日でもあります。月に1〜2回の通院に加えて、年に何度も書類のために窓口へ足を運ぶとなれば、それだけで使えるエネルギーが削られていきます。
通院の朝がもう少し軽くなれば、その分のエネルギーを仕事に、趣味に、大切な人との時間に使えるかもしれません。書類の負担が減ることは、単に「便利になる」という話ではなく、その人が自分の時間を自分のために使えるようになるということです。
アメリカのePAが約束するのは、テクノロジーによる「魔法」ではありません。「必要な情報を、必要なときに、必要な相手に届ける」という、ごく当たり前のことを当たり前にする仕組みです。日本でも、その「当たり前」に向けた歩みは始まっています。マイナ保険証の普及、電子処方箋の導入、医療情報の標準化——一つひとつは地味な変化ですが、それらが積み重なったとき、あの朝のファイルが少し薄くなる日が来るかもしれません。
大切なのは、その変化を「いつか届くもの」として待つのではなく、「誰の朝を、いつまでに変えるのか」を具体的に語り続けることだと思うのです。
【今後の注目ポイント】
- 2027年のCMS電子事前承認義務化に向けた早期採用プランの運用実績
- 日本における自立支援医療受給者証のマイナンバーカードへの統合時期
- 障害福祉サービス関連の診断書・意見書の書式統一に向けた省庁間の動き
- 医療DXの制度設計における当事者参画の具体的な仕組みづくり
参照元(出典)
- CMS Announces Early Adopters to Advance Solutions for Electronic Prior Authorization, Accelerating Momentum Ahead of 2027 Requirements(cms.gov)
- 健康保険法施行令等の一部を改正する政令案に関する御意見の募集について(public-comment.e-gov.go.jp)
- ハートネット | NHK(heart-net.nhk.or.jp)
- 事業者のデジタル化等に係る関係省庁等連絡会議(第11回)の資料等を掲載しました(digital.go.jp)
執筆者プロフィール

福祉制度・法律分野に詳しく、事業者や支援者、当事者にとって実践的な記事の執筆を行っている。複雑な制度の背景や目的まで丁寧に読み解くことを得意とする。