退職手当共済の見直しは、福祉現場の「辞めたい」を変えられるか——制度の仕組みから読み解く、もうひとつの処遇改善

退職手当共済の見直しは、福祉現場の「辞めたい」を変えられるか——制度の仕組みから読み解く、もうひとつの処遇改善

「退職金があるから続けられた」——ある支援員の言葉

障害者支援施設で15年間働いた元支援員の女性が、退職時にこう語ったことがある。「正直、何度も辞めようと思った。でも、退職金がちゃんと出ると聞いていたから、もう少しだけ頑張ろうって思えた」。月々の給与は手取りで18万円を切ることもあった。それでも踏みとどまれた理由のひとつが、退職手当共済制度だったという。

今、その制度の在り方が問い直されている。厚生労働省は「社会福祉施設職員等退職手当共済制度の在り方に関する検討会」を設置し、2024年度に入って議論を重ねている。第4回の検討会資料からは、制度の構造的な課題と、見直しの方向性が見えてきた。月々の賃金だけでなく、「辞めたあとのお金」という視点から、福祉人材の定着を考えてみたい。

退職手当共済制度とは何か——約73万人の「辞めたあと」を支える仕組み

まず、制度の基本を整理しておきたい。社会福祉施設職員等退職手当共済制度は、独立行政法人福祉医療機構(WAM)が運営する共済制度で、社会福祉法人が経営する施設・事業所の職員を対象としている。法人が毎月掛金を納付し、職員が退職した際に勤続年数に応じた退職手当が支給される仕組みだ。

2023年度末時点で、加入対象施設は約5万か所、被共済職員数は約73万人にのぼる。福祉現場で働く人の相当数がこの制度に関わっていることになる。73万人という数字は、ひとつの中核市の人口に匹敵する。それだけの人の「辞めたあとの暮らし」を左右する制度なのだ。

制度が抱える構造的な課題——「短期離職者には届かない」現実

しかし、この制度にはかねてから指摘されてきた課題がある。

ひとつは、短期勤続者への給付水準の低さだ。現行制度では、勤続1年以上で退職手当の受給資格が生じるが、勤続年数が短いほど支給額は極めて少ない。勤続3年で退職した場合の手当額は、掛金の積立額を大きく下回るケースもある。つまり、福祉現場で最も離職が多い「入職後3年以内」の層に対して、この制度はほとんどインセンティブとして機能していない。

介護労働安定センターの「令和4年度介護労働実態調査」によれば、介護職員の離職率は14.4%。離職者のうち約6割が勤続3年未満で辞めている。この層にとって、退職手当共済の存在は「辞めたあとの安心」にはなりにくい。冒頭の支援員のように「退職金があるから続けられた」と思えるのは、ある程度の勤続年数を重ねた人に限られるのが実情だ。

もうひとつの課題は、公費助成の対象範囲だ。かつては社会福祉法人が運営するすべての施設・事業が公費助成の対象だったが、2006年の制度改正で介護保険関連施設・事業が助成対象から外された。障害福祉サービスについても同様の議論がある。公費助成がなくなれば、法人の掛金負担が増し、小規模法人ほど制度への加入を維持しにくくなる。結果として、最も人材確保に苦しむ現場から、退職手当という「定着の糸」が失われるおそれがある。

検討会で何が議論されているのか——掛金率と給付設計の再構築

検討会では、こうした構造的課題を踏まえ、いくつかの方向性が議論されている。

第一に、掛金率の見直しだ。現行の掛金率は被共済職員の本俸月額に対して一定割合で設定されているが、福祉職員の賃金水準が近年の処遇改善加算等で変動していることを踏まえ、掛金率の適正化が検討されている。法人にとっての負担感と、職員にとっての給付水準のバランスをどこに置くかが焦点だ。

第二に、給付設計の見直しである。短期勤続者への給付を手厚くするか、あるいは長期勤続者への給付をさらに優遇して定着インセンティブを強化するか。この二つの方向性は一見矛盾するが、検討会ではどちらか一方に偏るのではなく、勤続年数ごとの給付カーブ全体を再設計する議論が進んでいるとみられる。

第三に、ポータビリティの問題がある。現行制度では、社会福祉法人間で転職した場合に勤続年数を通算できる仕組みがあるが、社会福祉法人以外の事業体(株式会社やNPO法人が運営する福祉事業所など)への転職では通算されない。福祉人材の流動性が高まる中で、「法人の枠を超えた通算」の仕組みをどう整備するかは、制度の根幹に関わる論点だ。

退職金は「贅沢品」ではない——福祉職員の生活設計という視点

退職手当の議論と聞くと、「まずは月々の給与を上げるべきだ」という声が上がるのは当然だ。実際、福祉職員の賃金水準は全産業平均と比べて依然として低い。厚生労働省の「令和4年賃金構造基本統計調査」によれば、福祉施設介護員の平均月収は約25.4万円で、全産業平均の約31.2万円を大きく下回る。年収ベースでは約70万円の差がある。

しかし、退職金の問題を「月給が先だ」と後回しにしてよいわけではない。退職金は、職員の長期的な生活設計——住宅ローンの返済、子どもの教育費、老後の備え——を支える重要な要素だ。特に福祉職は、月々の貯蓄が難しい賃金水準であるがゆえに、退職金が「人生の節目を支えるまとまったお金」としての意味を持つ。

ある特別養護老人ホームの施設長はこう話す。「採用面接で退職金制度のことを聞いてくる求職者は少なくない。特に30代、40代の転職者は、前職で退職金がなかったことへの不安を口にする。制度があること自体が、安心材料になっている」。

退職手当共済は、いわば福祉現場の「見えないセーフティネット」だ。その網の目が粗ければ、短期離職者はすり抜けてしまう。網の目を細かくするのか、網自体を広げるのか。検討会の議論は、73万人の暮らしの安心に直結している。

処遇改善加算との関係——「入口のお金」と「出口のお金」を一体で考える

近年、福祉職員の処遇改善は主に「処遇改善加算」という仕組みで進められてきた。介護職員処遇改善加算、介護職員等特定処遇改善加算、さらに介護職員等ベースアップ等支援加算と、加算の種類は増え、月額の賃金改善は着実に進んでいる。

しかし、これらの加算は「今、働いている間のお金」——いわば「入口のお金」だ。一方、退職手当共済は「辞めたあとのお金」——「出口のお金」である。人材の定着を本気で考えるなら、入口と出口の両方を整備する必要がある。

実際、民間企業では退職金制度の充実度が採用競争力に直結することは常識だ。福祉業界だけが「月給さえ上げれば人は来る」と考えるのは、いささか楽観的すぎるだろう。特に、他業種との人材獲得競争が激しさを増す中で、退職手当共済制度の魅力を高めることは、福祉業界全体の採用力強化にもつながる。

小規模法人への影響——制度を維持できるかという切実な問い

見落とされがちだが、退職手当共済制度の見直しは、小規模社会福祉法人の経営にも大きな影響を与える。職員数が20人に満たないような法人にとって、掛金の負担は経営を圧迫する要因になりうる。公費助成の縮小が進めば、「制度に入り続けること自体が難しい」という法人も出てくるだろう。

地方の小さな障害者グループホームや、過疎地域の高齢者デイサービス。こうした事業所は、地域の暮らしを支えるインフラであると同時に、そこで働く職員にとっては唯一の職場でもある。制度の見直しが「大規模法人には恩恵、小規模法人には負担」という構図にならないよう、規模に応じた配慮が不可欠だ。

「辞めたい」の手前にある「続けられない」を見つめて

福祉現場の人材問題を語るとき、「離職率」や「人手不足」という言葉が繰り返される。しかし、現場で聞こえてくるのは、もう少し複雑な声だ。「本当は辞めたくない。でも、この給料では家族を養えない」「やりがいはある。でも、将来が見えない」。

退職手当共済制度の見直しは、こうした「続けたいのに続けられない」という声に対する、ひとつの回答になりうる。もちろん、退職金の制度設計だけで離職問題が解決するわけではない。労働環境の改善、キャリアパスの整備、ハラスメント対策、ICT導入による業務負担の軽減——やるべきことは山積みだ。

それでも、「辞めたあとの暮らしも守られている」という安心感は、日々の仕事に向かう力になる。制度という無機質な仕組みの向こう側に、73万人の顔がある。検討会の議論が、その一人ひとりの暮らしに届く見直しにつながることを願っている。

今後の注目点

検討会は今後も議論を継続し、年度内にとりまとめが行われる見通しだ。注目すべきポイントは以下の3点である。

①給付カーブの再設計——短期勤続者への給付改善がどこまで踏み込まれるか。3年未満の離職者にも「制度に入っていてよかった」と思える水準が示されるかどうか。

②公費助成の範囲——障害福祉サービス分野への公費助成が維持されるか、あるいは縮小されるか。小規模法人の経営への影響を含め、慎重な議論が求められる。

③ポータビリティの拡大——法人の枠を超えた勤続年数の通算が実現すれば、福祉人材の流動性と定着を両立させる新しいモデルになりうる。

この制度の見直しは、派手なニュースにはならないかもしれない。しかし、福祉現場で働く人たちの「もう少し続けてみよう」を支える、静かだけれど確かな力になる可能性を秘めている。

参照元(出典)

  1. 「社会福祉施設職員等退職手当共済制度の在り方に関する検討会」(第4回)を開催します(mhlw.go.jp)
  2. 中央最低賃金審議会(目安に関する小委員会)(mhlw.go.jp)
  3. 令和8年度中央最低賃金審議会目安に関する小委員会(第2回)資料(mhlw.go.jp)
  4. 第3回 医療関係職種の安定的な養成・確保に関する検討会:資料(mhlw.go.jp)

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