1,100台の救急車が走り出す国で、それでも拾えない声がある
英国が過去最多となる1,100台超の新型救急車を配備したというニュースが飛び込んできました。老朽化した車両の入れ替えや、救急需要の増加への対応を目的としたもので、NHS(国民保健サービス)にとっては大きな前進です。
このニュースを聞いて、「うらやましい」と思った方もいるかもしれません。日本でも救急車の出動件数は年々増加し、2023年には過去最多の約764万件を記録しました。現場到着までの平均時間は約10.3分と、10年前より2分以上延びています。救急車が足りない、という実感は日本でも切実です。
でも、私がこのニュースに触れて最初に思い浮かべたのは、少し違う光景でした。
以前、障害者支援施設で働いていたとき、夜間にパニック状態になった利用者さんのために救急車を呼んだことがあります。救急隊員の方々は誠実に対応してくれました。でも、搬送先の病院で「精神科は対応できません」と言われ、深夜の街を別の病院へ向かうことになりました。ご本人は救急車の中で、ずっと小さく震えていました。
あの夜のことを思い出すたびに考えます。救急車は来てくれた。でも、あの人に本当に必要だった「助け」は、救急車の中にはなかったのではないか、と。
「台数」の向こう側にある問い
誤解のないように言えば、救急車を増やすことは間違いなく大切な施策です。英国でも日本でも、救急需要の増加に対してリソースが追いついていない現実があります。車両が増えれば、助かる命は確実に増えます。
しかし、精神科領域の救急に目を向けると、「車両の数」とは別の次元の課題が浮かび上がります。
日本の精神科救急医療体制は、都道府県ごとに「精神科救急情報センター」を設置し、夜間・休日の受診相談や搬送先の調整を行う仕組みになっています。ところが、厚生労働省の調査によると、精神科救急情報センターの24時間対応を実施している都道府県は全体の約6割にとどまります。残りの約4割では、深夜帯に相談窓口が閉じてしまう時間帯があるのです。
つまり、救急車が何台あっても、「この人を受け入れてくれる精神科の病院はどこか」という情報がつながらなければ、救急車は行き先を失います。救急隊員が電話をかけ続け、搬送先が決まるまでに1時間以上かかるケースも珍しくありません。その間、ご本人は狭い車内で不安と戦い続けることになります。
情報が届かないと、人の朝が変わらない
もう一つ、現場で深刻なのが「医療情報の断絶」です。
精神科の治療は、その人の生活歴、服薬歴、過去のエピソード、本人が望む対応方法など、長い時間をかけて積み重ねた情報の上に成り立っています。ところが、救急搬送の現場では、そうした情報がほとんど引き継がれないことがあります。
日本の電子カルテの普及率は、一般病院で約60%、診療所では約50%程度と言われています(2023年時点の推計)。しかも、電子カルテのシステムは医療機関ごとにバラバラで、A病院のカルテをB病院が閲覧することは基本的にできません。紙のカルテを使っている医療機関も依然として多く、患者さんが「いつもの薬」の名前を覚えていなければ、搬送先の医師はゼロから判断するしかないのです。
この問題に対して、国は「全国医療情報プラットフォーム」の構築を進めています。自治体や医療機関をつなぐ「Public Medical Hub(PMH)」と呼ばれる情報連携基盤もその一環で、患者の同意のもとで医療情報を共有する仕組みを目指しています。2024年度からマイナ保険証を基盤とした医療情報の閲覧が段階的に始まっており、将来的には救急搬送時にも活用される構想です。
ただ、精神科領域の情報共有には、特有の難しさがあります。精神科の診療情報は極めてセンシティブであり、本人の同意なく共有されることへの懸念は大きい。「情報が共有されれば便利」という話では済まないのです。だからこそ、当事者の方々と一緒に「どこまでの情報を、誰と、どんな場面で共有するか」を丁寧に設計する必要があります。「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」——この原則は、情報連携の仕組みづくりにおいても揺るがせにしてはなりません。
「電話できない人」の声を、どう拾うか

精神科救急のもう一つの隙間は、「助けを求める手段」そのものにあります。
現在、精神科救急の入り口は多くの場合「電話」です。精神科救急情報センターへの相談も、救急車の要請も、基本的には電話が前提です。しかし、聴覚に障害のある方、発話が困難な方、パニック状態で言葉が出ない方、そもそも「電話をかける」という行為自体がハードルになる方は少なくありません。
総務省は「聴覚障害者等による電話の利用の円滑化に関する基本的な方針」を改正し、電話リレーサービスの普及を進めています。Net119(ネット119)という、スマートフォンから文字や位置情報で119番通報ができるシステムの導入も、全国の消防本部の約8割まで広がりました。
これらは大きな前進です。しかし、精神科救急の文脈では、まだ十分とは言えません。Net119は主に聴覚・言語障害のある方を対象に設計されており、精神的な危機状態にある方が直感的に使える設計になっているかというと、課題が残ります。チャットやテキストで相談できる精神科救急の窓口は、一部の自治体やNPOが運営しているものの、全国的な標準にはなっていません。
英国では、NHSが「Crisis Text Line」と連携し、テキストメッセージで精神的な危機を相談できる仕組みを整備しています。また、一部の地域では精神科の専門スタッフが救急車に同乗する「メンタルヘルス救急チーム」の試みも始まっています。救急車という「箱」だけでなく、その中に誰が乗り、どんな対応ができるかまで踏み込んだ取り組みです。
こうした海外の事例を日本に持ってくるなら、何が必要でしょうか。まず、精神科の専門職の数が圧倒的に足りないという現実があります。日本の精神科医は約1万6,000人、精神保健福祉士は約10万人の有資格者がいますが、救急対応に携われる人材はそのごく一部です。制度を作るだけでなく、人を育て、配置し、処遇を改善するところまでセットで考えなければ、仕組みは絵に描いた餅になります。
「クライシスプラン」という小さな備え
一つ、希望の光だと感じている取り組みがあります。「クライシスプラン(危機対応計画)」です。
これは、精神的な危機が訪れたときに「自分はこうしてほしい」「この薬は合わない」「この人に連絡してほしい」といった情報を、本人が調子の良いときにあらかじめ書き留めておくものです。英国やオーストラリアでは「アドバンス・ステートメント」とも呼ばれ、精神科医療の中に組み込まれつつあります。
日本でも一部の医療機関や地域で導入が始まっています。このプランがあれば、たとえ本人が言葉を発せない状態で搬送されても、「この人が望む対応」の手がかりが残ります。電子カルテの共有が進まなくても、スマートフォンに入れたPDFや、財布に入れたカード一枚が、その人の意思を代弁してくれるかもしれません。
大きなシステムの整備を待つ間にも、一人ひとりができる備えがある。それは決して「自己責任」の話ではなく、「自分の声を未来の自分のために残しておく」という、静かな権利の行使です。
救急車の向こうに、暮らしがある
英国の1,100台の救急車は、確かに多くの命を救うでしょう。日本でも救急体制の充実は急務です。
でも、私たちが本当に目指すべきは、「救急車が来れば安心」という社会ではなく、「救急車を呼んだその先に、ちゃんとつながる場所がある」社会ではないでしょうか。
精神科救急の隙間は、制度の隙間であり、情報の隙間であり、想像力の隙間でもあります。「あの人が夜中に不安で眠れないとき、どこに電話すればいいんだろう」「電話ができないとき、どうすればいいんだろう」——そう想像することから、隙間は少しずつ埋まっていくのだと思います。
救急車の台数は数えられます。でも、届かなかった「助けて」の数は、誰にも数えられません。
だからこそ、数えられないものに目を向ける。それが、福祉の視点から医療を見つめるということなのだと、私は思っています。
参照元(出典)
- Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
- 第12回 精神保健医療福祉の今後の施策推進に関する検討会(令和7年12月1日開催)(wam.go.jp)
- 自治体・医療機関等をつなぐ情報連携システム(Public Medical Hub:PMH)(digital.go.jp)
- 聴覚障害者等による電話の利用の円滑化に関する基本的な方針の一部改正案に関する意見募集(public-comment.e-gov.go.jp)
執筆者プロフィール

メンタルヘルス、精神疾患に関する情報発信を中心に活動。医療や福祉制度の解説に加え、当事者や家族が抱える悩みに寄り添った記事を得意とする。
