「バス代が払えないから、今月の通院はやめる」——医療扶助の見直しが問う、生活保護と障害のはざまの通院格差

「バス代が払えないから、今月の通院はやめる」——医療扶助の見直しが問う、生活保護と障害のはざまの通院格差

診察は無料なのに、病院にたどり着けない

生活保護を受けている人の医療費は、医療扶助によって自己負担ゼロになる。制度だけを見れば、「お金がなくても医療は受けられる」はずだ。けれど現実には、病院の玄関にたどり着くまでの「あと数百円」が壁になって、通院そのものを諦める人がいる。

片道のバス代210円。往復で420円。週に1回通えば月に約1,700円。リハビリや精神科デイケアなど複数の通院先があれば、月3,000〜5,000円の交通費が生活保護費の中から消えていく。2024年度の生活扶助基準(1級地-1・単身・20〜40歳)は月額約76,310円。ここから家賃以外のすべて——食費、光熱費、日用品、携帯電話——をまかなう暮らしの中で、通院交通費は「削れる支出」の筆頭に挙がってしまう。

2025年5月に開催された「医療扶助・健康管理支援等に関する検討会」では、匿名医療情報(いわゆるNDB等の医療レセプトデータ)を活用した医療扶助の適正化・効率化が議題に上った。データに基づいて医療扶助のあり方を見直す動きは、一見すると「適正化=給付の引き締め」に映るかもしれない。しかし、この議論の射程はもっと広い。通院の実態を可視化することで、「届いていない支援」をあぶり出す可能性を秘めているからだ。

この記事では、医療扶助と通院交通費の構造的な問題を整理し、障害のある生活保護受給者の「ある一日」を想像しながら、制度の見直しが暮らしにもたらしうる変化を考えたい。

通院移送費——「申請すればもらえる」の現実

生活保護制度には、通院にかかる交通費を支給する「通院移送費」という仕組みがある。これを聞くと、「なんだ、制度はあるじゃないか」と思うかもしれない。しかし、この制度にはいくつもの条件がついている。

まず、通院先が「最寄りの医療機関」であること。専門医が遠方にしかいない場合は認められるケースもあるが、福祉事務所のケースワーカーに事前に相談し、必要性を認めてもらう必要がある。次に、申請手続きそのものの煩雑さ。通院のたびに交通費の領収書を保管し、申請書を記入し、福祉事務所に提出する。知的障害や精神障害のある人にとって、この事務作業は決して軽くない。

さらに問題なのは、制度の運用が自治体ごとに異なることだ。ある自治体では比較的柔軟に認められる通院移送費が、隣の自治体では「バス路線があるなら徒歩圏内とみなす」と却下されることもある。2018年度に厚生労働省が通知した「通院移送費の取扱いの明確化」以降も、現場での運用のばらつきは解消されていない。

結果として、制度を知らない人、申請の手間を負えない人、窓口で「認められにくい」と聞いて諦めた人が、静かに通院を減らしていく。これは統計には表れにくい。レセプトデータには「通院しなかった日」は記録されないからだ。

ある朝の通院動線——Bさんの場合

制度の話を「人の朝」に翻訳してみたい。

Bさん(40代・仮名)は、統合失調症と軽度の知的障害がある。グループホームではなく、単身でアパートに暮らしている。生活保護を受給しており、2週間に1回、精神科クリニックに通院している。クリニックまではバスで25分。徒歩だと1時間以上かかる。

朝、Bさんは財布の中身を確認する。月末が近い。食費を計算すると、バス代の往復420円を出すと、今週の食事が1食分減る。前回、ケースワーカーに通院移送費のことを聞いたが、「バスで行ける距離なら基本的には難しい」と言われた。正確には「申請してみましょうか」という言い方だったが、Bさんにはそれが「無理です」に聞こえた。

Bさんは考える。「薬はまだ4日分ある。来週にしよう」。こうして通院の間隔が2週間から3週間に延びる。主治医はBさんの来院が遅れたことに気づくが、連絡手段は限られている。症状が悪化してから救急搬送されるケースは、精神科の現場では珍しくない。

この「あと420円」の問題は、Bさん個人の金銭管理の問題ではない。制度が想定する「通院できる人」の像と、現実の受給者の間にずれがあるという構造の問題だ。

匿名医療情報で「見えない中断」を可視化できるか

検討会で議論された匿名医療情報の活用は、まさにこの「見えない通院中断」を可視化する可能性を持っている。

レセプトデータを分析すれば、生活保護受給者の通院頻度の変動パターン、処方日数と次回受診日のギャップ、月末に通院が減る傾向の有無などを、全国規模で把握することができる。これまで個々のケースワーカーの肌感覚でしか語られなかった「月末の通院控え」が、データとして裏付けられれば、制度改善の議論に具体的な根拠を提供できる。

加えて、障害種別ごとの通院パターンの違いも見えてくるはずだ。身体障害のある人はリハビリで週複数回の通院が必要になることが多く、交通費の負担は精神障害の人以上に重い。一方、精神障害のある人は通院中断が症状悪化に直結しやすく、結果として入院医療費という形でより大きなコストが発生する。厚生労働省の統計によれば、生活保護における医療扶助費は保護費全体の約半分(2022年度で約1兆8,000億円)を占めており、そのうち入院医療費の割合は依然として高い。通院の継続を支えることが、入院の予防につながり、結果として医療扶助費全体の適正化にもつながる——この因果をデータで示せれば、「交通費の支援拡充はコストではなく投資だ」という議論が成り立つ。

障害福祉サービスとの「制度のはざま」

障害のある生活保護受給者の通院問題を考えるとき、もう一つ見落とせないのが、障害福祉サービスとの制度の重なりと隙間だ。

障害者総合支援法に基づく「移動支援事業」は、市町村が実施する地域生活支援事業の一つで、屋外での移動が困難な障害者に対してヘルパーが同行する仕組みだ。しかし、「通院」は多くの自治体で移動支援の対象外とされている。通院は「医療」の範疇であり、医療扶助や通院移送費でカバーすべきという整理がなされているためだ。

では医療扶助側はどうか。先述のとおり、通院移送費の運用は限定的だ。つまり、「移動支援では通院に使えない」「通院移送費は申請が通りにくい」という二重の壁が、障害のある生活保護受給者の前に立ちはだかっている。

同行援護(視覚障害者向け)や行動援護(知的・精神障害者向け)といった個別給付の中には通院同行が認められるケースもあるが、支給決定までに時間がかかり、利用できるヘルパーの確保も地域によっては困難だ。制度は存在していても、それぞれが縦割りで設計されているために、当事者の「病院に行きたい」というシンプルなニーズに対して、どの制度も十分に応えきれていない。

海外の視点——イギリスの医療費免除交通支援

参考になる海外の事例として、イギリスのNHS(国民保健サービス)における「Healthcare Travel Costs Scheme(HTCS)」がある。これは、低所得者や特定の給付を受けている人が、NHS医療機関への通院にかかる交通費の払い戻しを受けられる制度だ。公共交通機関の運賃だけでなく、タクシーや自家用車のガソリン代も対象となる場合がある。

日本との決定的な違いは、申請のハードルの低さだ。HTCSは医療機関の窓口で直接申請でき、対象者であれば原則として支給される。日本のように福祉事務所を経由し、ケースワーカーの判断を仰ぐプロセスとは大きく異なる。

もちろん、イギリスの制度をそのまま日本に持ち込むことはできない。NHSは税方式の医療制度であり、日本の社会保険方式とは前提が違う。しかし、「通院交通費の支援を医療アクセスの一部として位置づける」という発想は、日本の医療扶助の見直しにおいても検討に値する。少なくとも、通院移送費の申請手続きの簡素化や、福祉事務所ではなく医療機関での申請受付といった運用改善は、現行制度の枠内でも実現可能ではないだろうか。

「あと420円」を制度の問題として語るために

医療扶助の見直しは、ともすれば「不正受給の防止」「頻回受診の抑制」といった文脈で語られがちだ。もちろん、限られた財源を適切に配分することは重要だ。しかし、匿名医療情報を活用するなら、「届きすぎている支援」だけでなく「届いていない支援」にも同じ解像度で光を当ててほしい。

Bさんのように、月末にバス代を惜しんで通院を先延ばしにしている人が全国にどれだけいるのか。その先延ばしが、どれだけの症状悪化と、どれだけの緊急入院につながっているのか。データはそれを語る力を持っている。

検討会の議論はまだ途上にある。今後、匿名医療情報の具体的な分析結果が示され、それが制度改善の根拠として政策に反映されるまでには、まだいくつものステップがある。だからこそ、この段階で「データの活用は、支援の削減ではなく、支援の届け直しのために使われるべきだ」という視点を、私たちは繰り返し確認しておきたい。

通院を諦めた朝のことは、どこにも記録されない。でも、その朝が積み重なって、ある日、救急車のサイレンが鳴る。制度の見直しとは、そのサイレンが鳴る前に手を打つことだ。「あと420円」を個人の問題にしない仕組みを、データの力を借りて、つくっていけるはずだと思う。

参照元(出典)

  1. 第5回医療扶助・健康管理支援等に関する検討会の開催について(報道発表)(mhlw.go.jp)
  2. 第41回 匿名医療情報等の提供に関する専門委員会(令和8年5月11日開催予定)(wam.go.jp)
  3. 毎月勤労統計調査ー2026(令和8)年3月分結果速報(mhlw.go.jp)
  4. 第41回匿名医療情報等の提供に関する専門委員会の開催について(mhlw.go.jp)

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