行政に問い合わせるとき、電話口の向こうにいるのがAIだったら——。そんな時代が、もう始まっている。
2025年5月、デジタル庁は行政向け大規模言語モデル「源内」をオープンソースソフトウェアとして公開した。平賀源内にちなんだこの名前には、「多才な発明家のように行政を変革したい」という開発チームの思いが込められているという。自治体の職員が政策文書を要約したり、住民からの問い合わせに対する回答案を生成したりと、行政事務の効率化を支えるツールとして設計されている。
このニュースを聞いたとき、私はかつて障害者支援施設で働いていた頃のことを思い出した。知的障害のあるTさん(当時40代)は、毎年の障害福祉サービスの更新手続きのたびに、窓口で長時間待たされ、何枚もの書類を前に固まってしまっていた。「先生、これ何て書けばいいの」。その声が、今も耳に残っている。
デジタル化が進めば、Tさんの朝は変わるのだろうか。それとも、Tさんのような人がますます見えなくなるのだろうか。
「源内」は何を変えようとしているのか
まず、事実を整理しておきたい。「源内」はデジタル庁が開発した行政特化型のAI基盤であり、オープンソースとして公開されたことで、全国約1,741の自治体が独自にカスタマイズして導入できる道が開かれた。現時点では主に行政職員の内部業務支援が想定されており、住民が直接対話する「AIチャットボット窓口」として即座に展開されるわけではない。
しかし、流れは確実にその方向へ向かっている。すでに横浜市や神戸市など複数の自治体がAIを活用した住民向けチャットボットを試験運用しており、「源内」の公開はこうした動きに共通基盤を提供するものだ。デジタル庁が同時期に更新を進めるマイナンバーカード関連システムや介護保険事務処理システムの改修と組み合わせれば、福祉サービスの申請から決定通知までの一連のプロセスが、紙とハンコの世界からデジタルへと大きく移行する可能性がある。
期待される効果は小さくない。たとえば、現在の障害福祉サービスの支給決定には、申請から決定まで自治体によって2週間から2か月以上かかるケースがある。書類の不備による差し戻し、担当者間の情報共有の遅れ、審査会の日程調整——こうしたボトルネックの多くは、AIによる書類チェックの自動化やデータ連携の効率化で短縮できる余地がある。職員がルーティン業務から解放されれば、その分、対面での丁寧な相談支援に時間を割けるようになるかもしれない。
これは単なる「便利になる」という話ではない。福祉サービスの申請が1日早く処理されるということは、入浴介助を待っている人が1日早くお風呂に入れるということだ。配食サービスの開始が1週間早まるということは、独居の高齢者が1週間分、温かい食事を届けてもらえるということだ。行政の効率化は、そのまま誰かの暮らしの質に直結する。
デジタルの「入口」に立てない人たち
だが、ここで立ち止まって考えなければならないことがある。
総務省の「通信利用動向調査」(2024年)によれば、70歳以上のインターネット利用率は約62%。つまり、約4割の高齢者がオンラインの世界にアクセスできていない。さらに、知的障害のある人、精神障害のある人、認知症の人など、画面上のテキストを読んで適切に操作することが困難な人々は、統計の数字には表れにくい。
厚生労働省の「障害福祉サービス等の利用状況」によると、2024年時点で障害福祉サービスの利用者は約160万人。介護保険サービスの利用者は約700万人を超える。合わせて860万人以上の人々が、福祉の申請窓口を必要としている。この中に、デジタル機器の操作に不安を抱える人がどれだけいるか。正確な数字はないが、現場感覚で言えば、決して少なくない。
私が施設で働いていた頃、ある利用者の母親(70代)がこう言っていた。「役所のホームページを見てくださいって言われるんだけど、どこを押したらいいかわからないの。息子の手続きのことなのに、息子にも私にもわからない」。この言葉は、デジタル化の本質的な問いを突いている。
福祉サービスを最も必要としている人が、その申請手段から排除される。これは「デジタルデバイド(情報格差)」という言葉では片付けられない、福祉の根幹に関わる問題だ。
海外の先行事例——エストニアの「成功」と「影」
行政のデジタル化で世界をリードするエストニアでは、99%の行政手続きがオンラインで完結する。福祉給付の申請も例外ではなく、電子IDを使えば数分で手続きが終わる。
しかし、エストニアの社会福祉関係者に取材した研究(タリン大学、2023年)によれば、デジタル化の恩恵を最も受けにくいのは、やはり高齢者と障害者だった。エストニアでは「デジタルアシスタント」と呼ばれる支援員が図書館や公共施設に配置され、操作を手助けする制度がある。だが、支援員の数は十分とは言えず、地方部では予約が数週間先になることもあるという。
この事例が示すのは、デジタル化と対面支援は「どちらか」ではなく「両方」必要だということだ。そして、対面支援を維持するにはコストがかかる。デジタル化で削減できたコストの一部を、対面支援の充実に再投資する——この循環を設計できるかどうかが、制度の成否を分ける。
日本に引きつけて考えると、全国の福祉事務所は約1,250か所。ここに「デジタル申請サポーター」のような人員を配置するとして、1か所あたり1人の人件費を年間400万円と仮定すれば、全国で約50億円。国の社会保障費約137兆円(2025年度予算)の中では0.004%にも満たない。技術への投資と同時に、人への投資を怠らないこと。それが、福祉のデジタル化を「誰も置き去りにしない」ものにする最低条件だろう。
「源内」に求められる福祉の視点
オープンソースとして公開された「源内」には、もうひとつ重要な論点がある。AIが生成する回答の正確性と、福祉特有の「あいまいさ」への対応だ。
福祉の制度は複雑に入り組んでいる。障害者手帳の等級、障害支援区分、所得区分、世帯構成——これらの組み合わせによって、利用できるサービスや自己負担額は大きく変わる。AIが「あなたはこのサービスを利用できます」と回答したとき、その情報が正確でなければ、申請者は誤った期待を持つか、本来受けられるサービスを見逃すことになる。
さらに厄介なのは、福祉の現場では「制度の文言には当てはまらないけれど、この人には支援が必要だ」という判断が日常的に行われていることだ。相談支援専門員やケースワーカーが、申請者の表情や言葉の端々から困りごとを読み取り、制度と制度のすき間を埋める——この「人間にしかできない仕事」を、AIはまだ代替できない。
「源内」が本当に福祉の現場で役立つものになるためには、AIが「わからない」と正直に答え、人間の相談員につなぐ設計が不可欠だ。AIが万能であるかのように振る舞うことは、最も支援を必要とする人を最も危険な状態に置くことになりかねない。
今後の注目ポイント——3つの問い

「源内」の公開を起点に、福祉のデジタル化は今後加速するだろう。そのとき、私たちが問い続けるべきことが3つある。
第一に、「対面窓口は守られるか」。デジタル化の推進が、対面サービスの縮小を正当化する口実に使われないか。自治体の財政が厳しい中、「オンラインでできるから窓口を減らそう」という判断は、合理的に見えて、最も脆弱な人々を切り捨てる選択になりうる。
第二に、「当事者の声は設計に反映されているか」。「源内」の開発や自治体への実装にあたって、障害当事者や高齢者の意見がどれだけ取り入れられているか。「私たちのことを私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」——障害者権利条約の根本原則は、デジタル化の設計段階にこそ適用されるべきだ。
第三に、「AIの判断は検証可能か」。AIが福祉サービスの受給可否に関わる情報を提供するなら、その判断根拠は透明でなければならない。オープンソースであることは透明性の第一歩だが、技術的にソースコードを読める人と、福祉の現場で制度を運用する人は別の人間だ。両者をつなぐ「翻訳者」の存在が必要になる。
小さな希望のありか
デジタル化を悲観するつもりはない。テクノロジーは、使い方次第で福祉の可能性を大きく広げる。音声入力で書類が作成できれば、文字を書くことが難しい人の負担は減る。多言語対応が進めば、外国にルーツのある人も福祉サービスにアクセスしやすくなる。AIが制度の全体像を整理してくれれば、相談員はもっと「聴く」ことに集中できる。
大切なのは、技術の導入そのものを目的にしないことだ。「この技術を使うと、あの人の暮らしはどう変わるか」。その問いを手放さない限り、デジタル化は福祉を前に進める力になる。
冒頭のTさんのことを、もう一度思い出す。もし「源内」が、Tさんの代わりに書類の下書きをしてくれて、それを窓口の職員が一緒に確認しながら「ここはこういう意味ですよ」と説明してくれたら——。AIと人間が、それぞれの得意なことを持ち寄る。そんな窓口の風景が実現したとき、デジタル化は初めて「誰のためか」という問いに答えられるのだと思う。
参照元(出典)
- ガバメントAI「源内」をOSS(オープンソースソフトウェア)として公開しました(digital.go.jp)
- マイナンバーカードの普及と利活用に関するダッシュボードのデータ更新を行いました(digital.go.jp)
- 介護保険事務処理システム変更に係る参考資料(その2)(令和8年4月20日事務連絡)(wam.go.jp)
- デジタル関係制度改革検討会(第10回)を開催しました(digital.go.jp)
- デジタル関係制度改革検討会 テクノロジーベースの規制改革推進委員会(第4回)の議事録等を掲載しました(digital.go.jp)
執筆者プロフィール

主に福祉関連を中心に活動するライター
制度の枠組みから心の機微までを丁寧に言語化する傍ら、暮らしを彩るモノ・コトへの感性も鋭い。専門性の高い記事から、軽やかなエッセイ、実用的なレビューまで、多角的な視点で「日常の価値」を編み直す。