NHS(英国の国民保健サービス)が8500人のメンタルヘルス職員を増やせた理由——日本の精神保健に持ってくるには何が足りないか

NHS(英国の国民保健サービス)が8500人のメンタルヘルス職員を増やせた理由——日本の精神保健に持ってくるには何が足りないか

不安で布団から出られない人がいる。パニック発作が怖くて電車に乗れず、職場に向かえない人がいる。子どもの不登校に寄り添いたいのに、相談窓口の予約は3か月先——。メンタルヘルスの支援が届かないとき、その人の日常は止まったままになります。

2026年4月、英国の国民保健サービス(NHS)は、メンタルヘルス分野で新たに8500人の職員を雇用したと発表しました。心理療法士、精神科医、メンタルヘルス看護師、ピアサポートワーカーなど多岐にわたる専門人材の確保です。8500人——それは、数万人、いや数十万人の「止まっていた日常」を動かしうる数字です。

この記事では、NHSがなぜこの規模の増員を実現できたのかを読み解きながら、日本の精神保健が同じ道を歩むために何が足りないのかを考えます。制度や予算の話になりますが、頭の片隅にはいつも「あの人の日常」を置いて読んでいただければ幸いです。

NHSの成功を支えた3つの柱

1. 政治が「メンタルヘルスは身体医療と同等」と宣言したこと

NHSの増員は突然実現したわけではありません。2014年に成立した「メンタルヘルスへの投資の平等(Parity of Esteem)」の原則が出発点でした。身体医療と精神医療に同等の優先度を置くという政策目標が法的に位置づけられ、以降、段階的に予算が積み増されてきました。

2023/24年度のNHSイングランドにおけるメンタルヘルス関連支出は約167億ポンド(約3.2兆円)に達し、NHS全体の予算の約10%を占めています。さらに、2025/26年度には追加で数億ポンドの投資が見込まれました。これは「メンタルヘルスにお金を使う」という政治的意思が、年度予算という形で継続的に裏打ちされたことを意味します。

2. 養成ルートの多様化と教育投資

NHSは、従来の大学院修了を前提とした養成ルートだけでなく、「段階的キャリアパス」を整備しました。具体的には、心理的ウェルビーイング実践者(PWP: Psychological Wellbeing Practitioner)という職種を設け、学士レベルの1年間の研修で臨床に入れる仕組みを作りました。これはIAPT(Improving Access to Psychological Therapies)プログラムの中核であり、軽度から中等度のうつ・不安障害に対する認知行動療法を、比較的短期間の訓練を受けた人材が提供できる体制です。

この「入口を広げる」戦略が、従来なら精神保健分野に進まなかった人材を呼び込みました。教育機関への奨学金制度や、訓練中の給与保障も設けられ、「学びながら生活できる」環境が整えられたことも大きな要因です。

3. 職場環境の改善と定着戦略

増員しても辞めてしまえば意味がありません。NHSはメンタルヘルス職員の離職率が他の医療職より高いという課題を認識し、スーパービジョン体制の強化、フレキシブルな勤務形態の導入、キャリアラダー(段階的な昇進制度)の明確化に取り組みました。特にバーンアウト(燃え尽き)対策として、職員自身のメンタルヘルスを支える仕組みが組織的に導入されたことは注目に値します。

日本の現状——「人が足りない」の構造

翻って、日本の精神保健の現場はどうでしょうか。

日本の精神保健福祉士の登録者数は約10万5000人(2024年時点)。しかし、実際に精神保健分野で働いている人はその一部にとどまります。公認心理師は2024年時点で約7万6000人が登録されていますが、常勤で臨床に従事できるポストは限られ、非常勤の掛け持ちで生計を立てている人も少なくありません。

厚生労働省の「医療関係職種の養成の在り方に関する検討会」では、安定的な人材確保が議論されていますが、そこで浮かび上がるのは以下の構造的課題です。

養成定員と実需のミスマッチ

精神保健福祉士の国家試験合格者数は年間約4500〜5000人前後で推移していますが、養成課程の定員充足率は年々低下傾向にあります。そもそも「この資格を取って、安定して働けるのか」という不安が、学生の進路選択に影を落としています。

処遇の壁

精神科病院に勤務する精神保健福祉士の平均年収は約350〜400万円程度とされ、同じ医療機関で働く看護師や理学療法士と比べても低い水準にあります。公認心理師に至っては、常勤ポストの少なさから年収200万円台で働く人もいるのが現実です。NHSのPWPが訓練中から給与保障を受けられることと比べると、日本では「学ぶコスト」を個人が負い、「働いても報われにくい」構造が残っています。

「メンタルヘルス=精神科医療」という狭い枠組み

日本では、メンタルヘルスの支援というと精神科の受診をイメージしがちです。しかし、NHSのIAPTプログラムが示したのは、軽度から中等度の心理的困難に対しては、精神科医でなくても適切な訓練を受けた専門職が対応できるという発想の転換でした。日本には「かかりつけ精神科」の文化が根づいておらず、一方でスクールカウンセラーや産業カウンセラーなどの配置は非常勤が中心です。支援の「面」が薄いのです。

日本に持ってくるなら、何が必要か

NHSの成功をそのまま日本に移植することはできません。公的医療制度の構造も、専門職の資格体系も異なります。しかし、「翻訳」できる要素はあります。

① 政治レベルでの「メンタルヘルス投資宣言」

日本の精神保健医療福祉関連予算は、医療費全体の中で依然として小さな割合にとどまっています。2024年度の障害福祉サービス等報酬改定では一定の処遇改善が図られましたが、「精神保健に集中投資する」という明確な政治メッセージはまだ発せられていません。英国の「Parity of Esteem」に相当する原則を、日本の法制度の中に位置づけることが出発点になるはずです。

② 養成ルートの多層化

精神保健福祉士や公認心理師の養成は、大学・大学院での長期教育が前提です。これ自体は質の担保として重要ですが、NHSのPWPのように「まず現場に入れる入口」を別途つくることも検討に値します。たとえば、ピアサポーターや心理支援補助者といった新たな職種を制度的に位置づけ、段階的にキャリアアップできる仕組みを整えることで、支援の裾野が広がります。

③ 処遇改善と常勤ポストの確保

人を増やすには、「この仕事で暮らしていける」という見通しが不可欠です。介護分野では処遇改善加算の仕組みが段階的に拡充されてきましたが、精神保健分野の心理職・福祉職にも同様の仕組みを適用し、常勤ポストの財源を確保することが急務です。現場で出会った若い公認心理師が「非常勤3つ掛け持ちで、自分のメンタルが持たない」と笑っていた顔が忘れられません。支援者が安心して働けなければ、支援の質は守れません。

④ 「精神科に行く前」の支援層を厚くする

NHSのIAPTは、GP(かかりつけ医)からの紹介で心理療法にアクセスできる仕組みです。日本でも、かかりつけ医や地域の相談支援事業所、学校、職場が「精神科受診の手前」で心理的支援を提供できる体制を整えることが、結果的に精神科医療の負担軽減にもつながります。

小さな希望を見つける

8500人という数字は、日本から見れば遠い話に感じるかもしれません。しかし、NHSもはじめから順調だったわけではありません。慢性的な人手不足、長い待機リスト、職員のバーンアウト——日本と同じ課題を抱えながら、「それでも変えよう」と政策の舵を切り、10年以上かけて今の形をつくってきました。

日本でも、変化の芽はあります。2024年度の障害福祉サービス等報酬改定では、精神障害にも対応した地域包括ケアシステムの構築が重点項目に位置づけられました。公認心理師の国家資格化からまだ数年、制度はまだ育っている途中です。

大切なのは、「メンタルヘルスの専門職を増やす」ことを単なる数合わせにしないことです。一人ひとりの専門職が、安心して学び、安心して働き、目の前の人の「止まった朝」を一緒に動かしていける——そんな仕組みをつくることが、本当の意味での「増員」だと思います。

NHSの8500人の向こう側には、朝、少しだけ楽に目を開けられるようになった人たちがいるはずです。日本でも、そんな朝を一つでも増やすために、制度と現場の両方から考え続けたいと思います。

参照元(出典)

  1. Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
  2. 医療関係職種の安定的な養成・確保に関する検討会(mhlw.go.jp)
  3. 第1回 医療関係職種の安定的な養成・確保に関する検討会:開催案内(mhlw.go.jp)
  4. 中核的介護人材の育成支援モデル事業の公募結果について(mhlw.go.jp)

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