退職金が届かない福祉職員——共済制度の「設計バグ」を直せるか

退職金が届かない福祉職員——共済制度の「設計バグ」を直せるか

「10年働いても退職金ゼロ」——ある介護職員の告白

都内の障害者支援施設で10年間、非常勤として働いてきた女性がいる。利用者の名前も好みも、季節ごとの体調の変化もすべて覚えている。けれど彼女が施設を離れるとき、退職金の支給額は「ゼロ」だった。社会福祉施設職員等退職手当共済制度——福祉の現場で働く人を支えるはずのこの仕組みが、なぜ「支える人を支えられない」構造になっているのか。2024年12月に開催された社会保障審議会福祉部会の資料を手がかりに、制度の「設計バグ」を読み解く。

そもそも退職手当共済制度とは何か

社会福祉施設職員等退職手当共済制度は、独立行政法人福祉医療機構(WAM)が運営する、福祉施設職員のための退職金共済だ。民間企業の中小企業退職金共済に相当するもので、施設の経営者が掛金を納付し、職員が退職したときにWAMから退職手当が支給される。

制度の骨格が作られたのは1961年。高度経済成長期に福祉人材を確保するため、公務員に準じた退職金を保障しようという発想で設計された。公費助成があることが特徴で、国と都道府県が掛金の一部を補助する仕組みになっている。

しかし60年以上前の設計思想は、「正規職員が一つの施設に長く勤める」ことを前提としていた。この前提そのものが、現在の福祉現場の実態と大きく乖離している。

数字が語る「届かない退職金」

制度の最大の問題は、加入要件と支給要件の壁だ。

まず加入要件。この制度に加入できるのは原則として「常勤職員」とされている。週の所定労働時間が常勤職員のおおむね4分の3以上であれば非常勤でも加入対象となり得るが、実態としては施設側が非常勤職員を加入させていないケースが少なくない。掛金は1人あたり月額数千円から1万円超。経営が厳しい施設にとっては、非常勤職員全員分の掛金を負担する余裕がないのが現実だ。

次に支給要件。退職手当が支給されるためには、原則として1年以上の加入期間が必要だ。さらに、支給額が実感できる水準になるのは加入期間3年以上からで、短期間の勤務では雀の涙ほどの金額にしかならない。

では、福祉現場の勤続年数はどうなっているか。公益財団法人介護労働安定センターの「令和5年度介護労働実態調査」によれば、介護職員の離職率は13.1%。離職者のうち、勤続1年未満で辞めた人が約35%、勤続3年未満まで広げると約6割に達する。つまり、退職金が「届く」前に現場を去る人が大半なのだ。

さらに深刻なのは、福祉現場における非正規雇用の割合だ。介護分野では労働者の約4割が非正規雇用であり、障害福祉分野でも同様の傾向がある。仮に約160万人とされる介護従事者のうち4割の64万人が非正規だとすれば、その多くが退職手当共済の「圏外」に置かれていることになる。64万人——これは一つの中核市の人口に匹敵する数だ。

「支える人が支えられない」という構造的矛盾

福祉部会の議論では、福祉人材の確保・定着が繰り返し課題として挙げられている。処遇改善加算の拡充や賃上げの議論が進む一方で、退職金制度の構造的な問題はなかなかテーブルに上がりにくい。

なぜか。退職金は「辞めるときの話」だからだ。人材確保の文脈では「入ってくる人をどう増やすか」「今いる人をどう引き留めるか」に議論が集中しがちで、「辞めた後にどう支えるか」は後回しにされやすい。

しかし、退職金制度は「辞めた後」だけの問題ではない。「この仕事を続けたら、将来どうなるのか」という見通しの問題だ。退職金がきちんと積み上がっていく実感があるかないかは、日々の仕事へのモチベーションに直結する。民間企業であれば転職時に企業型確定拠出年金のポータビリティ(持ち運び)が整備されつつあるが、福祉分野の退職手当共済にはそうした柔軟性が乏しい。施設を移れば加入期間はリセットされ、積み上げたものがゼロに戻る。

生活困窮者自立支援制度の現場でも、この矛盾は如実に表れている。生活に困窮する人を支える相談員自身が、非正規雇用で退職金もなく、将来の生活設計が描けない。社会保障審議会の生活困窮者自立支援及び生活保護部会では支援の「質」の向上が議論されているが、支援者自身の経済的基盤が脆弱なままでは、質の向上にも限界がある。

私がかつて現場にいたとき、ベテランの支援員がこう言っていた。「利用者さんの将来の計画は一生懸命考えるのに、自分の老後は何も考えられない」。この言葉が、制度の矛盾を最も端的に表している。

海外の事例——ポータビリティという発想

オーストラリアには「スーパーアニュエーション」と呼ばれる退職年金制度がある。雇用主が従業員の給与の11.5%(2024年時点)を年金基金に拠出する義務があり、これは正規・非正規を問わず適用される。そして最大の特徴は、転職しても基金が従業員個人に紐づいているため、積み立てが途切れないことだ。

イギリスでも2012年から自動加入制度(オートエンロールメント)が導入され、一定の収入がある労働者は雇用形態に関係なく職域年金に加入する仕組みが整備された。

これらの制度を日本の福祉分野にそのまま持ち込むことは難しい。財源の問題、既存制度との整合性、施設経営への影響など、クリアすべきハードルは多い。しかし「雇用形態に関わらず、働いた分だけ将来の保障が積み上がる」「転職しても積み立てが引き継がれる」という設計思想は、福祉人材の流動性が高い日本の現場にこそ必要ではないか。

制度を「直す」ための三つの視点

退職手当共済制度の「設計バグ」を修正するためには、少なくとも三つの視点が必要だと考える。

第一に、加入対象の拡大だ。非正規職員であっても、一定時間以上勤務する場合は加入を義務化する。掛金負担が施設経営を圧迫するのであれば、公費助成の配分を見直す必要がある。現在、公費助成は障害福祉分野の施設には手厚いが、介護分野では2006年に廃止されている。この非対称性自体が、制度の継ぎ接ぎ感を象徴している。

第二に、ポータビリティの確保だ。施設間を移動しても加入期間が通算される仕組みは既にあるが、制度の周知が不十分で活用されていないケースがある。さらに、福祉分野内での転職だけでなく、他業種からの参入・他業種への転出も視野に入れた制度間の接続を検討すべきだ。中小企業退職金共済や確定拠出年金との連携が実現すれば、「福祉の仕事を選んだら退職金で損をする」という構図を変えられる。

第三に、短期勤務者への配慮だ。1年未満の勤務で退職手当がゼロになる設計は、離職率の高い福祉現場の実態に合っていない。たとえば6か月以上の勤務で一定額を支給する、あるいは掛金の本人負担分を返還するといった仕組みがあれば、「働いた分が無駄にならない」という実感を持てる。

「設計バグ」の先にあるもの

制度の問題を「バグ」と呼ぶのは、それが悪意から生まれたものではないからだ。1961年の制度設計者たちは、福祉職員の待遇を少しでも良くしようと考えた。その志は正しかった。ただ、60年の間に現場の姿は変わった。非正規雇用が当たり前になり、転職が珍しくなくなり、福祉の担い手は多様化した。制度だけが、あの頃の前提のまま残されている。

バグは、見つけたら直せばいい。2024年度の福祉部会では、退職手当共済制度のあり方についても資料が提出され、議論の俎上に載りつつある。この議論が「制度を維持するための微調整」に終わるのか、「支える人が支えられる仕組みへの転換」にまで踏み込むのか。その分岐点に、私たちは立っている。

冒頭の女性は、今も別の施設で非常勤として働いている。「退職金がないから辞められない、じゃなくて、退職金があるから安心して続けられる。そういう仕組みだったらいいのに」。彼女の言葉は、制度設計者に届いているだろうか。届けなければならないと、私は思う。

参照元(出典)

  1. 社会福祉施設職員等退職手当共済制度の在り方に関する検討会(第4回)配布資料(mhlw.go.jp)
  2. 第4回 社会福祉施設職員等退職手当共済制度の在り方に関する検討会(令和8年7月16日開催)(wam.go.jp)
  3. 第30回 社会保障審議会「生活困窮者自立支援及び生活保護部会」(令和8年7月17日開催)(wam.go.jp)
  4. 第30回 社会保障審議会「生活困窮者自立支援及び生活保護部会」(資料)(mhlw.go.jp)

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