
「あなたには権利があります。でも、届け出てください」
もし、あなたが本来受け取れるはずのお金があると知らされたとして——その受け取り方が「自分から届け出ること」だったら、どうだろうか。届け出の書類が読めなかったら。届け出るという行為そのものが、心の重荷になる状態だったら。
2024年、生活保護費をめぐる最高裁判決を受け、過去に保護費を減額された受給者への追加給付(差額の返還的給付)が進められている。しかし、この給付には原則として受給者本人からの「申出」が必要とされている。厚生労働省の通知に基づき、全国の福祉事務所が対象者への案内を進めてはいるものの、現場からは「届かない人がいる」という声が、静かに、しかし確実に上がっている。
最高裁が認めた「減額は違法」——その先に残された手続きの壁
ことの発端は、2013年から段階的に実施された生活保護基準の引き下げだ。当時、国は「物価が下がったのだから、保護費も下げる」という論理で、生活扶助基準を最大10%引き下げた。この引き下げに対し、全国29都道府県で約1,000人の受給者が「生存権を侵害する」として集団訴訟を起こした。いわゆる「いのちのとりで裁判」である。
2024年7月、最高裁第三小法廷はこのうちの一件について、基準引き下げの算定過程に「統計等の客観的な数値等との合理的関連性」を欠く部分があったと認定し、厚生労働大臣の判断を違法とした。この判決を受け、厚生労働省は敗訴が確定した自治体の対象者に対して、減額分に相当する追加給付を行う方針を示した。
しかし、ここに構造的な問題がある。追加給付は自動的に振り込まれるわけではない。対象者が「申出書」を提出して初めて、給付の手続きが動き出す仕組みになっているのだ。
対象者は誰で、何人いるのか
追加給付の対象となるのは、2013年8月から2015年4月にかけての基準引き下げ期間中に生活保護を受給していた人たちだ。敗訴確定した自治体ごとに対象者が特定されるため、全国一律ではないが、訴訟が行われた自治体だけでも、その背後には膨大な数の受給者がいる。
厚生労働省の被保護者調査によれば、2013年時点の生活保護受給者数は約216万人。このうち、基準引き下げの影響を受けた世帯は約96%にのぼるとされていた。つまり、約200万人以上が「本来受け取れるはずだった額より少ない保護費で暮らしていた」ことになる。判決の効力が及ぶ範囲は限定的だが、この数字が示す問題の規模は、決して小さくない。
一人あたりの追加給付額は、世帯構成や居住地域によって異なるが、月額で数百円から数千円の減額が数年間にわたって続いたケースでは、累計で数万円から十数万円に達する可能性がある。生活保護受給世帯にとって、この金額は「あってもなくても同じ」ではない。冬の暖房費一か月分、あるいは子どもの学用品代に相当する額だ。
届け出られない人たち——現場で何が起きているか
問題は、この追加給付にたどり着けない人がいるということだ。
福祉事務所は対象者に文書で案内を送付している。しかし、生活保護受給者の中には、視覚障害のために郵便物の内容を自力で確認できない人がいる。知的障害があり、制度の説明文を理解することが難しい人がいる。精神疾患を抱え、「届け出る」という行為そのものに大きなエネルギーを必要とする人がいる。高齢で認知機能が低下し、届いた書類を「また役所からの通知か」と放置してしまう人がいる。
生活保護受給世帯のうち、高齢者世帯は約55%、障害者・傷病者世帯は約25%を占める(2023年・被保護者調査)。つまり、受給者の約8割が、何らかの理由で「届け出る」ことに困難を抱えうる層なのだ。
ある自治体のケースワーカーは、こう打ち明ける。「案内文を送っても反応がない方がいる。訪問して説明すればわかってもらえるけれど、一人ひとり訪問する時間が取れない。担当世帯が100を超えている状態では、追加給付の説明だけに時間を割くのは現実的に厳しい」。
ケースワーカー一人あたりの担当世帯数は、社会福祉法の標準では80世帯とされているが、都市部では120〜150世帯を担当しているケースも珍しくない。人手不足の現場に、新たな業務が上乗せされている構造がある。
「申請主義」という日本の福祉の宿痾

この問題の根底には、日本の福祉制度に通底する「申請主義」の原則がある。生活保護そのものが「申請」によって開始される制度であり、追加給付もまたその延長線上にある。権利はある。でも、声を上げなければ届かない。
生活保護の捕捉率——つまり、制度を利用する資格がある人のうち実際に利用している人の割合——は、日本では推計20〜30%程度とされている。これは、ドイツの約65%、イギリスの約60%と比較すると著しく低い。「申請しなければ始まらない」という仕組みが、制度の入口で多くの人を遠ざけてきた。
追加給付の「申出」も、同じ構造を再生産している。最高裁が「あなたたちの保護費は不当に減らされていた」と認めたにもかかわらず、その回復のために再び本人が声を上げなければならない。これは、制度の設計として本当に適切なのだろうか。
社会保障審議会・生活保護基準部会での議論
2024年に開催された第59回社会保障審議会生活保護基準部会では、生活扶助基準の検証方法について議論が行われた。部会では、全国消費実態調査のデータを用いた「水準均衡方式」による検証が続けられているが、委員からは「消費実態だけでは、生活保護受給者の実際の生活の質を測れない」との指摘も出ている。
特に注目すべきは、物価上昇局面における基準の妥当性だ。2022年以降の食料品価格の高騰は、エンゲル係数の高い低所得世帯ほど大きな打撃を受ける。総務省の家計調査によれば、年収200万円未満の世帯のエンゲル係数は約30%に達しており、食料品価格が10%上がれば、生活費全体の3%が圧迫される計算になる。生活保護基準がこうした変動に迅速に対応できているかどうかは、今後の部会での重要な検討課題だ。
また、2013年の基準引き下げが「デフレ調整」として行われた経緯を踏まえれば、現在のインフレ局面で同様の調整——つまり基準の引き上げ——が検討されるべきだという議論も、論理的には成り立つ。しかし、現時点でそうした動きは見えていない。
「届ける福祉」への転換は可能か
追加給付の申出問題を、単なる手続きの話として片づけてはいけない。これは、日本の福祉制度が「届ける」仕組みに変われるかどうかの試金石だ。
いくつかの自治体では、独自の工夫を始めている。対象者リストに基づいて個別に電話連絡を行う自治体、民生委員と連携して訪問説明を行う自治体、障害者相談支援事業所に協力を依頼して代筆・代行を支援する自治体もある。こうした取り組みは、ケースワーカーの負担を分散しながら、届け出の壁を低くする現実的な方法だ。
さらに踏み込めば、「申出がなくても、対象者が特定できるのであれば自動的に給付する」という仕組みも、技術的には不可能ではない。マイナンバーと生活保護の受給記録を突合すれば、対象者の特定は可能だ。問題は、制度設計の思想として「プッシュ型給付」に舵を切れるかどうかにある。
2020年のコロナ禍における特別定額給付金(一律10万円)では、申請主義の限界が広く認識された。あのとき「届かない人がいる」と社会が気づいた教訓は、今回の追加給付にも生かされるべきだろう。
小さな希望を、制度の隙間に
最高裁判決は、生活保護受給者の権利を司法が正面から認めたという意味で、大きな一歩だった。しかし、判決が出ただけでは、暮らしは変わらない。判決の効力が、届け出の壁に阻まれて一人ひとりの手元に届かないのだとすれば、それは制度の不備であり、社会の課題だ。
生活保護基準部会での議論は続いている。追加給付の申出期限も、いずれ区切られる。その前に、届け出られない人のそばに誰かがいること——ケースワーカーであれ、相談支援員であれ、民生委員であれ、隣人であれ——が、制度の隙間を埋める最後の砦になる。
「届け出なければ、なかったことになる」。そんな制度のあり方を、私たちは本当にこのまま受け入れていいのだろうか。最高裁が認めた権利が、すべての対象者の手元に届くまで、この問題を追い続けたい。
参照元(出典)
- 最高裁判決を踏まえた保護費の追加給付に係る申出手続きについて(mhlw.go.jp)
- 第59回 社会保障審議会 生活保護基準部会(令和8年7月29日開催)(wam.go.jp)
- 第59回社会保障審議会生活保護基準部会 資料(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

福祉制度・法律分野に詳しく、事業者や支援者、当事者にとって実践的な記事の執筆を行っている。複雑な制度の背景や目的まで丁寧に読み解くことを得意とする。