
「退院したい」と言えない30万人のこと
日本の精神科病院には、いま約27万人が入院している。そのうち1年以上の長期入院は約16万人。5年、10年と病院で暮らし続けている人も珍しくない。「退院したい」と口にしたことがある人は、どれくらいいるだろう。そもそも退院後の暮らしを想像できる環境が、病棟の中にあるだろうか。
2026年8月5日、英国健康社会福祉省はメンタルヘルスの地域支援に3億4,300万ポンド(約540億円)を投じると発表した。NHSの枠組みで159カ所のメンタルヘルスセンターを新設し、地域で暮らしながら専門的な支援を受けられる体制を整えるという。救急外来(A&E)に駆け込むしかなかった人たちに、「その手前」の受け皿をつくる計画だ。
この記事では、英国の動きを入口にしながら、日本の精神科医療が抱える構造的な課題を整理したい。比べて嘆くためではない。「地域で暮らす」を実現するために、日本で何が足りていないのかを考えるためだ。
英国の計画——540億円で何が変わるのか
英国の発表をもう少し具体的に見てみよう。159カ所の新設センターは、イングランド全域をカバーする形で配置される。担うのは主に3つの機能だ。
- 早期アクセス:うつや不安障害、統合失調症の初期段階で、予約なしでも相談できる窓口
- 危機対応:自傷や自殺念慮がある場合に、救急外来ではなく精神保健の専門チームが対応
- 継続的なケアプラン:地域の住居支援や就労支援と連携し、退院後の暮らしを途切れさせない
英国政府がこの投資に踏み切った背景には、救急外来の逼迫がある。英国では精神的な危機に陥った人がA&Eに来院するケースが年々増加し、待ち時間が長時間に及ぶことが社会問題になっていた。救急の現場は身体的な緊急対応に追われており、メンタルヘルスの専門スタッフが常駐しているわけではない。結果として「来たけれど、十分な対応を受けられなかった」という経験が繰り返されていた。
540億円という金額は大きい。だが英国の年間NHS予算が約25兆円規模であることを考えると、全体の約0.2%にあたる。「画期的な大転換」というよりは、長年の課題にようやく具体的な予算がついた、という見方が現実に近いだろう。
日本の精神科病床——なぜ「世界最多」が続くのか
日本の精神科病床数は約32万床(2023年、厚生労働省「医療施設調査」)。人口千人あたりの精神科病床数はOECD平均の約4倍にのぼる。なぜこれほど多いのか。
歴史をたどると、1950年代から60年代にかけて、国の政策として精神科病院の増床が進められたことに行き着く。1958年の厚生事務次官通知では、精神科病院の人員配置基準を一般病院より低く設定する、いわゆる「精神科特例」が認められた。医師は一般病院の3分の1、看護師は3分の2でよいとされたこの基準は、民間病院の参入を促し、病床数は急速に膨らんだ。
その後、先進国の多くは1970年代から80年代にかけて「脱施設化」に舵を切った。イタリアのバザーリア法(1978年)が象徴的だが、英国も1990年代以降、大規模精神科病院の閉鎖と地域ケアへの移行を進めてきた。日本でも2004年に厚生労働省が「精神保健医療福祉の改革ビジョン」を策定し、「入院医療中心から地域生活中心へ」という方針を掲げた。しかし、20年以上が経った現在も病床数の減少は緩やかで、構造は大きく変わっていない。
なぜ変わらないのか。理由はひとつではないが、大きな要因を3つ挙げる。
1. 退院先がない グループホームや訪問看護、地域の相談支援といった「退院後の暮らし」を支える資源が圧倒的に不足している。退院できる状態にあっても、住む場所と日中の居場所がなければ退院は実現しない。厚労省の調査では、長期入院患者のうち「受け入れ条件が整えば退院可能」とされた人が約3.9万人いるとされる。この数字は、3.9万人分の暮らしの場が地域に足りていないことを意味する。
2. 病院経営の構造 精神科病院の約8割は民間が運営している。病床を減らすことは収入の減少に直結するため、経営的なインセンティブが働きにくい。診療報酬の仕組みも、入院に比べて地域でのケアへの評価が低い状態が長く続いてきた。
3. 家族と地域の「受け皿」意識 「病院にいたほうが安心」という家族の思いは、決して冷たさから来るものではない。地域に支援がなければ、家族がすべてを背負うことになる。その不安が、結果として長期入院を容認する構造を支えてきた側面がある。
当事者の声——「選べない」という苦しさ
制度の話は、どうしても数字と構造の話になりがちだ。でも、その数字の一つひとつは誰かの暮らしだ。
精神科病院に長期入院している人の中には、「ここを出たい」と思いながらも、退院後の生活をどう組み立てればいいのかわからない人がいる。地域の相談支援専門員につながったことがない人もいる。入院が長引くほど、地域での生活経験は薄れ、「外の世界」への不安は大きくなる。
一方で、地域で暮らしている人たちからは別の声が聞こえてくる。「調子が悪くなったとき、すぐに相談できる場所がない」「夜間や休日に頼れるところがない」「訪問看護の回数が足りない」。こうした声は、厚労省の障害者部会や各地の自立支援協議会でも繰り返し指摘されている。
英国が今回つくろうとしている「予約なしで相談できるセンター」「危機対応の専門チーム」は、まさにこの隙間を埋めるものだ。日本でも一部の自治体では精神科救急情報センターや24時間対応の相談窓口が整備されているが、全国的に見れば地域差が大きい。人口の多い都市部でも「つながれない夜」がある。
日本で「地域移行」を進めるために何が必要か

英国のモデルをそのまま日本に持ち込むことはできない。NHSという公的医療制度を基盤にした英国と、民間病院が中心の日本では、政策の動かし方が根本的に異なる。それでも、英国の取り組みから学べる視点はある。
まず、「地域の受け皿」に具体的な予算をつけること。 日本では「地域移行」が理念として語られて20年以上になるが、地域側の体制整備に十分な財源が投じられてきたとは言いがたい。グループホームの整備、ピアサポーターの養成と雇用、訪問看護ステーションの精神科対応力の強化——必要な施策はすでに見えている。足りないのは、それを実行するための予算と人材だ。
次に、「危機のときの選択肢」を増やすこと。 調子を崩したときに「入院か、我慢か」の二択しかない状況は、当事者にとっても家族にとっても苦しい。英国のように、入院の手前で専門的な支援を受けられる場所があれば、入院そのものを減らせる可能性がある。日本でも「精神科救急」と「地域の日常的な相談支援」の間をつなぐ仕組みが求められている。
そして、診療報酬と障害福祉報酬の設計を見直すこと。 病院が地域移行に取り組むほど経営が厳しくなる構造のままでは、変化は起きにくい。地域での支援に対する報酬を引き上げ、病院と地域の支援者が連携するインセンティブを設計することが不可欠だ。2024年度の診療報酬改定では地域移行に関する加算が一部拡充されたが、現場からは「まだ十分ではない」という声が多い。
32万床の向こう側にある暮らし
32万という数字を聞いて、「多い」と思うか「そういうものだ」と思うかは、その人の立場によって違う。でも、その病床の一つひとつにベッドがあり、そこで毎朝目を覚ます人がいる。その人たちの中に、地域で暮らしたいと思っている人がいる。
英国の540億円の投資が成功するかどうかは、まだわからない。計画の発表と実行の間には、常に距離がある。だが少なくとも、「地域で支える」ことに具体的な金額と場所と人員を割り当てたという事実は、日本にとっても問いかけになる。
日本の精神科医療を変えるのは、一つの大きな改革ではなく、地域ごとの小さな実践の積み重ねかもしれない。グループホームを一つ増やすこと、訪問看護の枠を一人分広げること、地域の相談窓口の開所時間を1時間延ばすこと。そうした一つひとつが、「退院したい」と言える環境をつくっていく。
32万床の数字が少しずつ小さくなるとき、その分だけ、地域に「ただいま」と言える場所が増えているといい。
参照元(出典)
- [更新] Department of Health and Social Care – GOV.UK gov.uk
- [更新] Department of Health and Social Care – GOV.UK gov.uk
- [更新] ハートネット | NHK heart-net.nhk.or.jp
- 第158回 社会保障審議会 障害者部会(令和8年8月19日開催予定) wam.go.jp
- [更新] Mental Health Europe: Advocacy & Support for Well-being mentalhealtheurope.org
執筆者プロフィール

メンタルヘルス、精神疾患に関する情報発信を中心に活動。医療や福祉制度の解説に加え、当事者や家族が抱える悩みに寄り添った記事を得意とする。