最低賃金が上がるたびに、福祉事業所の支援員が一人減る——賃金と福祉の見えない連立方程式

最低賃金が上がるたびに、福祉事業所の支援員が一人減る——賃金と福祉の見えない連立方程式

時給が50円上がった日、あの事業所から一人いなくなった

最低賃金が上がる。それは、働く人にとって嬉しいニュースのはずです。コンビニのレジに立つ人も、倉庫で荷物を運ぶ人も、その日の暮らしが少しだけ楽になる。誰かの時給が上がることに反対する理由なんて、本来どこにもありません。

でも、私がかつて働いていた障害者支援施設の所長は、毎年秋になると静かにため息をついていました。「最低賃金、また上がるね」。その声には、喜びではなく、祈るような切実さがありました。

最低賃金が上がると、福祉事業所の支援員の人件費も上がります。けれど、事業所に入ってくる報酬——つまり国が決めた「福祉サービスの値段」は、同じようには上がりません。その差額は、どこに消えるのか。答えはシンプルで残酷です。人を減らすか、支援を薄くするか。あるいは、その両方。

この記事では、最低賃金の引き上げと福祉事業所の報酬単価のあいだに横たわる「見えない連立方程式」を、できるだけ具体的な数字と、現場の風景とともに読み解いていきます。

最低賃金1,000円時代の光と影

2023年10月、全国加重平均の最低賃金は1,004円となり、初めて1,000円の大台を超えました。2024年度にはさらに引き上げられ、1,054円に到達。政府は2020年代半ばまでに全国平均1,500円を目指すと表明しており、上昇の流れは今後も続く見通しです。

飲食業や小売業では、最低賃金の上昇に合わせて価格転嫁が進みます。牛丼が20円値上がりする、クリーニング代が少し上がる。消費者としては痛みを感じることもありますが、「働く人の暮らしを支えるためなら」と多くの人が受け入れています。

ところが、福祉サービスには「値上げ」という選択肢がほとんどありません。障害福祉サービスの報酬は、厚生労働省が3年に一度の報酬改定で決定します。事業所が自分で価格を設定することはできないのです。つまり、人件費は毎年上がるのに、収入は3年に一度しか見直されない。この時間差が、現場にじわじわと効いてきます。

2024年度の障害福祉サービス等報酬改定では、全体で1.12%の引き上げが行われました。一方、最低賃金は2023年から2024年にかけて約5%上昇しています。この差を、現場はどうやって埋めればいいのでしょうか。

支援員が一人減ると、福祉事業所の風景が変わる

数字の話を、少しだけ「人の暮らし」に翻訳させてください。

たとえば、日中活動を行う生活介護事業所。利用者20名に対して、支援員5名で日々の活動を支えているとします。朝、利用者が通所してきたら、一人ひとりの体調を確認し、着替えを手伝い、その日の活動プログラムに合わせて準備をする。食事の介助、排泄の支援、パニックを起こした方への対応、ご家族との連絡帳のやりとり。5人でも「もう一人いてくれたら」と思う日がほとんどです。

そこから支援員が一人減って4人になると、何が起きるか。

まず、朝の受け入れに時間がかかるようになります。一人ひとりに声をかける余裕が減り、「おはよう、昨日よく眠れた?」というたった一言が省略されます。活動プログラムは「全員が同じことをする」形に画一化されやすくなり、Aさんが好きだった個別の創作活動は「人手が足りないから」と月に一度に減らされる。午後になると支援員の疲労が蓄積し、利用者の小さな変化——表情の曇り、いつもと違う仕草——を見逃しやすくなります。

これは「支援の質が低下する」という抽象的な話ではありません。Aさんの朝の「おはよう」が消え、Bさんの好きな活動が減り、Cさんの体調の変化に気づくのが半日遅れるという、一人ひとりの暮らしに直結する話です。

数字で見る「見えない連立方程式」

もう少し具体的に、事業所の収支を追ってみましょう。生活介護事業所(定員20名)のモデルケースで考えます。

【収入側】

  • 基本報酬単価:利用者1人1日あたり約8,000円〜10,000円(利用者の障害支援区分による)
  • 月の開所日数を22日、平均利用率を90%とすると、月の収入はおよそ316万円〜396万円
  • 各種加算(福祉専門職員配置等加算、処遇改善加算など)を含めても、月の総収入は400万円〜500万円程度

【支出側】

  • 支援員5名の人件費:常勤の平均月給を約25万円(社会保険料等の事業主負担含めると約32万円)とすると、5名で月160万円
  • 管理者・サービス管理責任者等の人件費:月70万円〜90万円
  • 施設維持費(家賃・光熱費・設備費):月50万円〜80万円
  • その他運営費(送迎車両費、活動材料費、事務費等):月30万円〜50万円
  • 月の総支出:310万円〜380万円

一見すると収支は成り立っているように見えます。しかし、ここに最低賃金の上昇が加わるとどうなるか。

最低賃金が時給50円上がると、パート職員を含めた人件費は事業所全体で年間100万円〜180万円増加します。常勤職員についても、最低賃金に近い水準で働いている支援員の給与を引き上げなければ、「コンビニで働いた方が時給が高い」という状況が生まれ、離職に直結します。そのため、常勤職員の賃上げも連動して必要になり、実際の人件費増加額はさらに膨らみます。

一方、報酬改定で1.12%引き上げられたとしても、年間の収入増加は約50万円〜70万円にとどまります。

差額の50万円〜100万円以上を、事業所はどこかから捻出しなければなりません。活動費を削る、設備の更新を先送りにする、そして最終的には——人を減らす。

処遇改善加算という制度があり、支援員の賃金改善に充てるための報酬が別途支給されます。2024年度からは処遇改善加算が一本化され、最大で基本報酬の24.5%が加算される仕組みになりました。これは確かに大きな前進です。しかし、加算の取得には計画書の作成や実績報告など事務負担が伴い、小規模事業所ほど「加算を取るための人手がない」というジレンマに陥りがちです。

「他の仕事の方が割がいい」——人材流出の現実

独立行政法人福祉医療機構の調査によると、障害福祉サービス事業所の離職率は業界全体で高止まりしており、特に経験3年未満の若手支援員の離職が深刻です。

その背景には、賃金の問題が色濃くあります。福祉・介護職員の平均月給は、全産業平均と比べて依然として約6万円〜7万円低い水準にあります。最低賃金が上がれば上がるほど、他業種との賃金差は相対的に縮まるように見えますが、実態は逆です。他業種が賃上げに動く中、福祉分野の賃上げは報酬改定のタイミングに縛られるため、差が開くタイミングが周期的に訪れるのです。

現場の支援員からは、こんな声を聞くことがあります。

「この仕事が好きで続けている。でも、隣のドラッグストアの求人を見ると、時給が100円高い。自分の生活もあるから、悩まない方がおかしい」

「好き」だけでは暮らしていけない。その当たり前のことが、福祉の現場では長年、見て見ぬふりをされてきました。

海外はどうしているのか——イギリスとスウェーデンの場合

海外に目を向けると、福祉人材の確保と最低賃金の関係について、異なるアプローチが見えてきます。

イギリスでは、ソーシャルケアワーカーの賃金が長年低く抑えられてきたことが社会問題となり、2022年以降、政府が福祉分野への追加予算を投じて賃金底上げを図っています。ただし、その財源は地方自治体の税収に依存する部分が大きく、地域間格差が新たな課題として浮上しています。

スウェーデンでは、福祉サービスの多くが公的部門によって運営されており、職員は公務員として安定した待遇を受けています。最低賃金という制度自体が存在せず、労使交渉によって業種ごとの賃金水準が決まる仕組みです。福祉職の賃金は他の公的部門と大きな差がなく、人材の流出が起きにくい構造になっています。

日本に持ってくるなら何が必要か。スウェーデン型の公的雇用をそのまま導入するのは現実的ではありませんが、少なくとも「福祉サービスの報酬改定を最低賃金の改定と連動させる仕組み」は検討に値するのではないでしょうか。3年に一度の報酬改定を待つあいだに、現場が干上がってしまうのでは意味がありません。

今後の注目ポイント——この連立方程式を解くために

2024年度の報酬改定は終わったばかりですが、すでに次の3年間を見据えた議論が始まっています。注目すべきポイントをいくつか挙げます。

1. 報酬改定の頻度と柔軟性

最低賃金は毎年改定されるのに、福祉報酬は3年に一度。この非対称性を解消するために、中間年での臨時的な報酬見直しや、最低賃金連動型の加算新設が議論されるかどうか。社会保障審議会障害者部会の動向を注視したいところです。

2. 処遇改善加算の実効性

一本化された処遇改善加算が、実際に現場の支援員の手元にどれだけ届いているのか。事務負担の軽減策が十分に機能しているか。特に小規模事業所の取得状況は重要な指標になります。

3. ICT・テクノロジーの活用による業務効率化

記録業務のデジタル化、見守りセンサーの導入など、支援員の負担を軽減する技術の普及が進むかどうか。ただし、これは「人を減らすための効率化」ではなく、「人にしかできない支援に集中するための効率化」でなければ意味がありません。

4. 自治体独自の上乗せ支援

国の報酬単価だけでは不十分な部分を、自治体が独自に補助金で補う動きが一部で見られます。東京都の「障害福祉サービス等職員宿舎借り上げ支援事業」などがその例です。こうした取り組みが全国に広がるかどうかも鍵になります。

「こうなったらいいのに」を、声にすること

最低賃金の引き上げは、間違いなく正しい方向です。働く人の暮らしを守ることは、社会の土台を強くすることです。

でも、その土台の上に立つはずの福祉の現場が、同じ力で押しつぶされているとしたら。それは制度の設計に「抜け落ちている視点」があるということです。

最低賃金が上がるたびに、福祉事業所の支援員が一人減る。この連立方程式は、どちらか一方の変数だけをいじっても解けません。賃金と報酬、雇用と支援、経済政策と福祉政策——本来つながっているはずのものが、別々の会議室で別々の人たちによって決められている。そのことに、まず気づく必要があります。

私がかつて一緒に働いていた支援員の先輩は、利用者さんの名前を全員フルネームで覚えていて、一人ひとりの好きな音楽も、苦手な食べ物も、機嫌が悪い日のサインも知っていました。そういう支援は、マニュアルには書けません。人がいて、時間があって、関係性があって、初めて生まれるものです。

その「人」を守るための仕組みを、私たちはまだ持てていない。でも、持てないわけではない。

「最低賃金が上がっても、福祉の現場から人が減らない社会」。そんな当たり前のことが、当たり前になる日を、私は諦めたくないと思っています。まずは、この見えない連立方程式の存在を、一人でも多くの人に知ってもらうことから。

この記事が、そのきっかけの一つになれたら嬉しいです。

参照元(出典)

  1. 最低賃金に関する実態調査(mhlw.go.jp)
  2. 第209回労働政策審議会労働条件分科会 開催案内(mhlw.go.jp)
  3. 第224回労働政策審議会職業安定分科会を開催します(mhlw.go.jp)
  4. 第1回 医療関係職種の安定的な養成・確保に関する検討会:資料(mhlw.go.jp)

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