「運動しましょう」「食事に気をつけましょう」「人とつながりましょう」——2026年7月にWHO(世界保健機関)が発表した認知症リスク軽減ガイドラインの要点を一言でまとめれば、そういうことになる。認知症のリスクを最大45%減らせる可能性があるという数字は、確かに希望だ。でも、その「希望」を手に取れる場所に立てない人がいることを、私たちは同時に考えなければならない。
日本には現在、約600万人以上の認知症の方がいるとされ、2030年には約700万人に達するとの推計もある。「45%のリスク軽減」が本当に届くなら、数十万人単位の暮らしが変わる計算だ。けれど、その恩恵を受けられるかどうかは、いまの日本では「どこに住んでいるか」「どんな身体を持っているか」「心の調子はどうか」によって大きく左右される。この記事では、WHOのガイドラインが示す予防行動と、日本の制度や暮らしの間にある溝——「予防格差」について考えたい。
「週150分の運動」は、誰にとっての150分か
WHOが推奨する認知症予防の柱のひとつが、週150分以上の中程度の有酸素運動だ。ウォーキングや水泳、体操などが挙げられている。健康な成人であれば、1日約20分の散歩を習慣にすればクリアできる数字に見える。
しかし、車いすを使って暮らしている方にとって、近所を「散歩」すること自体が簡単ではない。歩道の段差、点字ブロックの途切れ、バリアフリー対応のスポーツ施設の少なさ。厚生労働省の調査によれば、障害者が利用できるスポーツ施設が「身近にある」と回答した人は全体の約2割にとどまっている。フィットネスジムの月会費は平均7,000〜10,000円程度だが、障がいに対応したプログラムを持つ施設はさらに限られ、都市部に偏在している。
つまり、「週150分の運動」という推奨は、それを実行できるインフラと経済的余裕がある人を暗黙の前提としている。この前提に当てはまらない人は、ガイドラインの数字の外側に置かれることになる。
「社会参加」の壁は、物理的なものだけではない
WHOのガイドラインがもうひとつ重視しているのが、社会参加だ。人とのつながりが認知機能の維持に寄与することは、多くの研究が示している。地域のサロン、趣味の集まり、ボランティア活動——こうした場に定期的に顔を出すことが推奨されている。
だが、うつ病や不安障害を抱える方にとって、「人の集まりに出かける」ことそのものが大きなハードルになることがある。厚生労働省の「患者調査」(2023年)では、精神疾患の総患者数は約614万人と過去最多を更新した。この中には、外出すること自体に強い困難を感じている方が少なくない。「社会参加しましょう」という呼びかけは、その一歩を踏み出すための支えがなければ、届かないメッセージになってしまう。
さらに、知的障がいのある方の場合、ガイドラインの内容を理解しやすい形で届ける工夫がなければ、情報そのものにアクセスできない。「わかりやすい版」の資料作成や、支援者を通じた情報提供の仕組みが不可欠だが、現状では自治体ごとの対応にばらつきが大きい。
介護保険制度は「予防」をどこまでカバーしているか
ここで、日本の介護保険制度に目を向けてみたい。介護保険には「介護予防」という枠組みがある。要支援1・2の認定を受けた方を対象に、筋力トレーニングや栄養改善、口腔ケアなどの介護予防サービスが提供されている。また、2015年からは「介護予防・日常生活支援総合事業(総合事業)」が始まり、要支援認定を受けていない一般の高齢者も、自治体が運営する「通いの場」などに参加できるようになった。
しかし、この仕組みにはいくつかの課題がある。
まず、介護保険の対象は原則65歳以上だ。40〜64歳でも特定疾病(若年性認知症を含む16疾病)に該当すれば利用できるが、認定のハードルは高い。若年性認知症の方は全国に約3.57万人いるとされるが、初期段階では「まだ介護は必要ない」と判定されやすく、予防的な支援につながりにくい。
また、精神障がいのある方が介護保険の要介護認定を受ける際、身体機能中心の認定調査では日常生活の困難さが十分に反映されないことがある。調査員の質問に「できます」と答えてしまう方も多く、実際の暮らしの大変さと認定結果にずれが生じやすい。結果として、必要なサービスにたどり着けないケースが生まれている。
障害福祉サービスとの併用という選択肢もあるが、介護保険と障害福祉の「どちらが優先か」という制度間の調整は複雑で、当事者や家族が自力で最適な組み合わせを見つけるのは容易ではない。相談支援専門員の数も十分とは言えず、制度の「つなぎ目」で支援が途切れるリスクがある。
「予防」を届けるために、いま必要なこと

課題を並べるだけでは前に進めない。では、どうすればWHOのガイドラインが示す「予防」の恩恵を、より多くの人に届けられるのか。いくつかの方向性を考えてみたい。
1. 「通いの場」のバリアフリー化とインクルーシブ化
全国に約14万か所あるとされる「通いの場」は、高齢者の社会参加の拠点として広がってきた。この場を、障がいのある方や精神疾患を抱える方にも開かれたものにしていくことが考えられる。物理的なバリアフリーだけでなく、参加しやすい雰囲気づくり、多様なプログラムの用意、必要に応じた個別の声かけなど、「心のバリアフリー」も含めた設計が求められる。すでに一部の自治体では、障がいのある方と高齢者が一緒に参加できる「共生型」の通いの場を試みており、こうした実践から学べることは多い。
2. オンラインを活用した予防プログラムの展開
外出が難しい方にとって、オンラインでの健康プログラムや交流の場は有効な選択肢になりうる。コロナ禍をきっかけに広がったオンライン体操教室やリモートでの見守り活動は、移動の壁を越える可能性を示した。ただし、デジタルデバイスの操作に不慣れな方への支援や、通信環境の整備といった前提条件を忘れてはならない。「オンラインなら誰でもできる」という思い込みもまた、新たな格差を生みかねない。
3. 制度の「つなぎ目」を埋める相談支援の充実
介護保険、障害福祉サービス、医療、地域の居場所——これらを横断的につなぐ相談支援の存在が欠かせない。2021年から始まった「重層的支援体制整備事業」は、分野を超えた包括的な相談支援を目指す枠組みだが、実施自治体はまだ全体の約2割程度にとどまっている(2024年時点)。この事業の全国展開を加速させるとともに、相談支援専門員やコミュニティソーシャルワーカーの増員・処遇改善が急がれる。
4. 当事者の声を制度設計に反映する仕組み
「私たちのことを、私たち抜きに決めないで(Nothing About Us Without Us)」——この原則は、認知症予防の施策においても貫かれるべきだ。障がいのある方、精神疾患を抱える方、若年性認知症の当事者が、政策の検討段階から参画できる場を設けること。それは単なる「意見聴取」ではなく、制度の設計そのものに当事者の経験を組み込むということだ。
「予防」の先にあるもの
最後に、ひとつだけ付け加えておきたいことがある。
「予防」という言葉には、どうしても「認知症にならないこと」が正解であるかのような響きがつきまとう。もちろん、リスクを減らせるならそれに越したことはない。でも、認知症になった方の暮らしが「失敗」なのではない。予防できなかった方が「努力不足」なのでもない。予防の話をするときに、この前提を見失ってはいけないと思う。
WHOのガイドラインが示す「45%のリスク軽減」は、たしかに大きな数字だ。けれど、その数字の恩恵を届けるためには、制度と制度の間にある隙間を見つめ、そこに暮らしている一人ひとりの顔を思い浮かべる作業が必要になる。
週150分の運動ができなくても、月に一度、誰かと話せる場所があること。制度の窓口で「それはうちの管轄ではありません」と言われずに済むこと。自分のペースで、自分に合った形で、健康を守る選択肢を持てること。そういう小さな積み重ねが、結局は一番確かな「予防」なのかもしれない。
「45%」という数字を、すべての人のものにするために。まだやれることは、きっとある。
参照元(出典)
- Newsroom | World Health Organization(who.int)
- 令和8年度 全国介護保険担当課長会議資料(mhlw.go.jp)
- ハートネット | NHK(heart-net.nhk.or.jp)
執筆者プロフィール

介護や高齢者問題に関する執筆を多数担当。介護に携わる家族や支援者の視点を大切にしながら、現場で役立つ情報をわかりやすく発信している。