「病名がつく速さ」が暮らしを左右する——NHS新薬アクセス迅速化、日本の難病検討委員会、ICD-11移行から考える

「病名がつく速さ」が暮らしを左右する——NHS新薬アクセス迅速化、日本の難病検討委員会、ICD-11移行から考える

診断がつかないまま、何年も暮らしている人がいる。

体の不調は確かにあるのに、検査を重ねても「原因不明」と言われ続ける。病名がなければ、医療費の助成も受けられない。障害福祉サービスの申請もできない。職場に説明する言葉も持てない。「病名がつく」というたった一つのステップが、その人の暮らし全体を動かしている——そんな現実が、日本にもイギリスにもある。

2025年、イギリスと日本でほぼ同時期に動き出した三つの変化が、この問題に光を当てている。NHSの新薬アクセス迅速化試験、厚生労働省の難病検討委員会の議論、そして2026年に控えるICD-11への移行。それぞれの動きを追いながら、「病名がつくまでの時間」が人の暮らしにどう影響するのかを考えてみたい。

NHSが始めた「数ヶ月を縮める」試み

イギリスの国民保健サービス(NHS)が、新薬へのアクセスを迅速化するパイロットプログラムを開始した。従来、NHSで新薬が使えるようになるには、国立医療技術評価機構(NICE)の費用対効果評価を経る必要があり、承認から患者の手元に届くまでに平均して数ヶ月から1年以上かかることもあった。今回の試験では、一定の条件を満たす医薬品について、評価プロセスと並行して患者への提供を始める仕組みが導入される。

この「数ヶ月」という時間は、数字だけ見れば短く感じるかもしれない。しかし、進行性の難病を抱える人にとって、その数ヶ月は症状が一段階進む時間でもある。筋萎縮性側索硬化症(ALS)の場合、発症から平均3〜5年で呼吸機能が低下するとされており、治療開始が半年遅れることの意味は計り知れない。NHSイングランドの推計では、今回の迅速化により年間数千人規模の患者が、従来より早く新薬にアクセスできる可能性があるとされている。

ただし、注意しておきたいことがある。この仕組みは「新薬アクセスの迅速化」であって、「診断の迅速化」とは異なる。薬が早く届いても、そもそも病名がついていなければ処方は始まらない。イギリスでも希少疾患の診断までに平均5.6年かかるという調査結果(Rare Disease UK, 2019)があり、診断と治療アクセスの両方を同時に短縮しなければ、患者の暮らしは変わらない。NHSの今回の試みは、パイプラインの「後半」を速くする取り組みだ。では「前半」——病名がつくまでの時間——はどうなっているのか。

日本の難病検討委員会——「指定」されなければ始まらない現実

日本に目を向けよう。厚生労働省の厚生科学審議会疾病対策部会難病対策委員会では、指定難病の見直しに関する議論が続いている。2024年時点で指定難病は341疾病。この「指定」を受けることで、患者は医療費助成の対象となり、月々の自己負担上限額が設定される。

しかし、指定難病に認定されていない希少疾患は、国内に数千あるとも言われている。たとえ医師が臨床的に診断をつけても、その疾患が指定難病のリストに載っていなければ、助成制度の対象にはならない。つまり日本では、「医学的に病名がつく」ことと「制度的に病名が認められる」ことの間に、もう一つの壁がある。

指定難病の医療費助成を受けている患者は約104万人(2023年度衛生行政報告例)。一方で、難病情報センターによれば、国内の希少疾患の患者総数はこれをはるかに上回ると推定されている。その差の中に、制度の光が届いていない人たちがいる。

具体的な暮らしへの影響を想像してみたい。指定難病の医療費助成がなければ、高額な検査や治療にかかる費用は原則3割負担のままだ。難病の治療では月に数万円から十数万円の自己負担が発生することも珍しくない。助成があれば自己負担上限は所得に応じて月額2,500円〜30,000円に抑えられる。この差は、働くことが難しい当事者やその家族にとって、文字通り生活が成り立つかどうかの分かれ目になる。

難病検討委員会では、指定難病の要件見直しや、認定プロセスの効率化が議論されている。患者団体からは「認定までに何年もかかる間に、症状が進行してしまう」「同じ病気なのに、住んでいる自治体によって認定のスピードが違う」といった声が上がっている。制度の入り口に立つまでの時間をどう短くするか。これは医学の問題であると同時に、行政の問題でもある。

ICD-11への移行——「病名の地図」が書き換わるとき

2026年、日本ではICD-11(国際疾病分類第11版)への移行が予定されている。ICDは世界保健機関(WHO)が定める疾病分類の国際基準で、日本の死亡統計や医療機関のレセプト(診療報酬請求)にも使われている。現行のICD-10は1990年に採択されたもので、約30年ぶりの大改訂となる。

ICD-11で注目すべき変更点はいくつかある。まず、希少疾患のコードが大幅に拡充された。ICD-10では独立したコードを持たなかった多くの希少疾患が、ICD-11では固有のコードを与えられている。Orphanet(欧州希少疾患データベース)との連携により、約5,000の希少疾患がICDの体系に組み込まれた。

これは何を意味するのか。病名にコードがつくということは、その疾患が「統計上、存在する」ことになる。患者数の把握が可能になり、研究の優先順位づけにも影響する。レセプトに正確なコードが記載されることで、医療費の実態が可視化され、制度設計の根拠にもなりうる。

もう一つ、ICD-11ではゲーム障害(Gaming Disorder)が新たに収載されたことが話題になったが、福祉の現場にとってより大きいのは、「伝統医学」の章が新設されたことや、機能的な状態を記述するためのコード体系が整備されたことだろう。これにより、「病名」だけでなく「その病気によって暮らしのどの部分が困難になっているか」をコードとして記録できる可能性が広がる。

ただし、移行には課題もある。医療機関のシステム改修、医療従事者への研修、レセプト審査体制の整備など、実務面でのハードルは小さくない。移行期に混乱が生じれば、むしろ患者の不利益につながるリスクもある。厚生労働省は段階的な移行を計画しているが、現場の準備状況には地域差がある。

「診断→病名認定→制度適用→治療・支援」——このパイプラインの中で何が起きているか

ここまでの話を整理してみたい。患者が適切な医療や支援にたどり着くまでには、いくつものステップがある。

  1. 症状の発現と受診——本人が「おかしい」と気づき、医療機関を受診する
  2. 医学的診断——検査を経て、医師が病名をつける
  3. 制度上の認定——その病名が助成や支援の対象として認められる
  4. 治療・支援へのアクセス——薬が処方され、福祉サービスが利用できるようになる

イギリスのNHSの試みは、主にステップ4を速くする取り組みだ。日本の難病検討委員会の議論は、ステップ2と3の間の壁を低くしようとしている。ICD-11の移行は、ステップ2の精度を上げ、ステップ3への橋渡しを改善する可能性がある。

どのステップが遅れても、患者の暮らしは止まる。そして現実には、これらのステップは順番に進むとは限らない。「診断はついたけれど指定難病ではないので助成が受けられない」「助成の対象だけれど、地元に専門医がいないので治療が始められない」「治療法はあるけれど、日本では未承認の薬しかない」——こうした「途中で止まっている」状態にある人が、少なくない。

日本に必要なのは「パイプライン全体」を見る視点

海外の事例を日本に持ってくるとき、いつも考えることがある。制度の一部分だけを切り取って「イギリスではこうしている」と紹介しても、それだけでは暮らしは変わらない。NHSの新薬アクセス迅速化が機能しているのは、NICEという評価機関の信頼性があり、GPを起点とするかかりつけ医制度があり、処方から供給までの物流が整備されているからだ。一つのパーツだけを移植しても、全体の仕組みが違えば同じ結果にはならない。

日本で「病名がつくまでの時間」を短くしようとするなら、少なくとも三つのことが必要だと思う。

一つ目は、希少疾患の診断ネットワークの強化。現在、難病の診断拠点病院は全国に設置されているが、地域によってアクセスのしやすさに差がある。オンライン診療やAI診断支援の活用も含めて、「どこに住んでいても、適切な診断にたどり着ける」体制づくりが求められる。

二つ目は、指定難病の認定プロセスの透明化とスピードアップ。新たな疾患が指定難病に追加されるまでのプロセスや基準を、患者や家族にもわかりやすく公開すること。そして、認定の判断を待つ間にも、暫定的な支援が受けられる仕組みを検討すること。

三つ目は、ICD-11移行を「単なるコード変更」で終わらせないこと。せっかく希少疾患のコードが拡充されるのだから、それを指定難病の見直しや、患者数の実態把握、研究資源の配分に活かす仕組みまでセットで設計してほしい。コードが変わっても、それを使う人と制度が変わらなければ、患者の暮らしには届かない。

「名前がつく」ということの重さ

以前、支援の現場にいたとき、長い間「診断がつかない」状態で暮らしていた方に出会ったことがある。体が思うように動かないのに、病名がないから障害者手帳の申請もできない。「気のせいじゃないか」と言われることもあったという。ようやく病名がついたとき、その方が言った言葉が忘れられない。「病名がついて、やっと自分の体に起きていることを人に説明できるようになった」。

病名は、ラベルではない。その人が社会の中で「自分に何が起きているか」を伝えるための言葉であり、支援や制度につながるための鍵でもある。だからこそ、その鍵が手に届くまでの時間は、できる限り短くあってほしいと思う。

NHSの試み、難病検討委員会の議論、ICD-11の移行。それぞれは別々のニュースに見えるけれど、根っこでつながっている。「病名がつく速さ」は、医療の効率性の話ではなく、一人ひとりの暮らしの話だ。制度を動かす人たちには、その先にいる人の顔を思い浮かべながら、議論を進めてほしいと願っている。

参照元(出典)

  1. Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
  2. 第67回厚生科学審議会疾病対策部会指定難病検討委員会の開催について(mhlw.go.jp)
  3. 2026年5月20日 第3回人口動態統計のICD-11準拠の統計分類適用に係るワーキンググループ 議事録(mhlw.go.jp)
  4. 令和8年度第1回厚生科学審議会疾病対策部会・第7回社会保障審議会小児慢性特定疾病対策部会(持ち回り合同開催)(mhlw.go.jp)

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