
週に50時間、無給で働く人たちのことを、国はどこまで知っているだろう
朝5時に起きて母のおむつを替え、朝食を作り、デイサービスの送り出しを済ませてから出勤する。帰宅すれば夕食の介助、入浴の見守り、服薬の管理。眠りにつくのは深夜0時を過ぎてから——。こうした暮らしを何年も続けている人が、日本には数百万人いる。彼らに「職業名」はない。給与明細もない。ただ「家族だから」という理由で、膨大な時間と体力と感情を注ぎ続けている。
2025年7月、イギリス政府がひとつの答えを出した。無償で介護を担う人々——いわゆる「無償の介護者」に対する、同国初の包括的な国家支援戦略を発表したのだ。この動きは、家族介護を「個人の美徳」ではなく「社会が支えるべき労働」として位置づける転換点になりうる。日本の家族介護者にとって、この海の向こうのニュースはどんな意味を持つのか。制度の中身を読み解きながら、考えてみたい。
イギリスの国家戦略——何が画期的なのか
イギリス政府が発表した「ケアラー戦略(Carer’s Strategy)」は、無償の介護を行う人々を社会政策の正面に据えた、同国史上初の包括的な計画だ。イギリスでは約500万人が無償の介護者として日常的に家族や友人の介護を担っているとされ、そのうち約150万人は週に50時間以上を介護に費やしている。これはフルタイム労働を超える時間だ。
戦略の柱は大きく三つある。
第一に、ケアラーの「早期認識(early identification)」の仕組みづくり。医療機関や学校、職場など、ケアラーが日常的に接する場所で、本人が「自分はケアラーである」と認識し、支援につながれる仕組みを整備する。イギリスの調査では、ケアラーの約4割が「自分がケアラーだと認識するまでに1年以上かかった」と回答しており、支援の入口に立つまでの時間的ロスが深刻な課題だった。
第二に、ケアラーの心身の健康への投資。長期間の介護は、ケアラー自身のメンタルヘルスに大きな影響を与える。イギリスの慈善団体カーラーズUKの調査によれば、ケアラーの約7割が介護によるストレスで精神的な不調を経験し、約6割が自身の通院を後回しにしている。戦略では、ケアラー向けのメンタルヘルスサポートや、レスパイト(一時休息)サービスの拡充が盛り込まれた。
第三に、経済的支援の見直し。イギリスにはすでに「ケアラーズ・アローワンス(Carer’s Allowance)」という週約81.90ポンド(約1万5,000円)の手当が存在するが、受給要件が厳しく、週35時間以上の介護を行い、かつ本人の収入が一定額以下でなければ受け取れない。今回の戦略では、この要件の緩和や支給額の引き上げが検討課題として明記された。
注目すべきは、この戦略が単なる「福祉の充実」ではなく、経済政策としても位置づけられている点だ。イギリスの無償の介護者が提供する介護の経済的価値は、年間約1,620億ポンド(約30兆円)と試算されている。これはNHS(国民保健サービス)の年間予算に匹敵する規模であり、もしケアラーが一斉に介護をやめれば、国の医療・福祉システムは即座に崩壊する。政府はようやく、この「見えない労働」の巨大さに向き合い始めたと言える。
日本の家族介護者——制度の隙間に立つ人たち
翻って、日本の状況はどうか。
総務省の「就業構造基本調査」(2022年)によれば、日本で家族の介護を担っている人は約629万人。そのうち、介護をしながら働いている人は約365万人にのぼる。毎年約10万人が「介護離職」に追い込まれ、離職後に再就職できた人の約半数は収入が大幅に減少しているというデータもある。
日本の介護保険制度は、2000年の創設以来、「介護の社会化」を掲げてきた。家族だけに介護を押しつけず、社会全体で支える——その理念は先進的だった。しかし四半世紀が経った今、制度が支えているのは「要介護者本人」であり、介護する側の家族を直接支える仕組みは極めて薄いのが実情だ。
介護休業制度は通算93日間。育児休業が最長2年取得できるのと比べると、介護の長期化を考えれば圧倒的に短い。介護休業給付金は賃金の67%が支給されるが、そもそも制度の存在を知らない人が多く、取得率は極めて低い。厚生労働省の調査では、介護休業の取得率はわずか数%にとどまっている。
さらに深刻なのは、介護者への「手当」がほぼ存在しないことだ。イギリスのケアラーズ・アローワンスのような、介護者本人に直接支給される現金給付は、日本の国の制度にはない。一部の自治体が独自に「家族介護慰労金」を設けているが、支給額は年間10万円程度、対象も重度の要介護者を在宅で介護し、かつ介護サービスをほとんど利用していない場合に限られるなど、条件が厳しい。「慰労」という名称が象徴するように、それは権利としての給付ではなく、あくまで「ご苦労さま」という位置づけだ。
見過ごされてきた人たち——ヤングケアラーと障害児の親
家族介護者の中でも、とりわけ制度の谷間に置かれてきたのが、ヤングケアラーと障害児の親たちだ。
日本のヤングケアラーは、中学生の約17人に1人、高校生の約24人に1人とされる(2020年度厚労省・文科省調査)。彼らの多くは、自分がケアラーであるという自覚すら持てないまま、学業や友人関係を犠牲にしている。ある高校生は「部活を続けたかったけど、祖母の通院の付き添いがあるから諦めた。でも、それが普通だと思っていた」と語った。イギリスの戦略が「早期認識」を柱に据えた理由は、まさにここにある。ケアラーが「自分は支援を受けていい存在だ」と気づくこと自体が、支援の第一歩なのだ。
障害のある子どもを育てる親もまた、介護保険制度の枠外に置かれている。介護保険は原則65歳以上が対象であり、障害児の介護は障害福祉サービスの範疇だが、親自身の心身の健康や就労への影響を直接支える制度は乏しい。「子どもが成人しても、介護は終わらない。でも私たちの疲労には期限がある」——ある母親の言葉が、制度と現実の乖離を端的に表している。
日本にイギリスの制度を持ってくるなら、何が必要か

イギリスの戦略をそのまま日本に移植することはできない。医療制度の構造も、家族観も、財源の仕組みも異なる。しかし、日本が学ぶべきエッセンスは明確だ。
第一に、「ケアラー」という存在を法的に定義すること。日本では、家族介護者を包括的に定義した法律がない。埼玉県が2020年に全国初の「ケアラー支援条例」を制定し、その後北海道栗山町や三重県名張市などが続いたが、国レベルの法整備には至っていない。イギリスでは2014年の「ケア法(Care Act 2014)」でケアラーの権利が明文化され、今回の戦略はその延長線上にある。法的な定義がなければ、支援の対象も範囲も曖昧なままだ。
第二に、介護者への直接的な経済支援の創設。介護保険の財源を介護者支援に振り向けることには抵抗があるかもしれない。しかし、介護離職による経済損失は年間約6,500億円と推計されており(経済産業省、2018年)、ケアラーへの投資は長期的には社会保障費の抑制にもつながる。月額数万円の「ケアラー手当」を創設するだけでも、介護者の生活の安定度は大きく変わる。
第三に、レスパイトの「権利化」。現在、日本のショートステイや日中一時支援は「サービス」として提供されているが、利用には介護認定やサービス計画が必要で、急な利用は難しい。介護者が「休む権利」を持ち、それを行使できる仕組みが求められる。
制度を変えるのは、いつも「声」だ
制度は、声を上げた人の数だけ動いてきた。介護保険制度の創設も、障害者総合支援法の成立も、当事者や家族の声が政策を動かした結果だ。
今、日本各地で「ケアラー支援」を求める動きが少しずつ広がっている。一般社団法人日本ケアラー連盟は、国に対してケアラー支援法の制定を求める要望書を提出し続けている。自治体レベルでは、ケアラーの実態調査や相談窓口の設置が進みつつある。
イギリスの国家戦略は、こうした日本の動きに追い風をもたらすだろう。「海外ではもうここまで進んでいる」という事実は、国内の議論を加速させる力を持つ。
ただし、忘れてはならないことがある。制度ができても、届かなければ意味がない。イギリスでさえ、ケアラーズ・アローワンスの受給資格があるのに申請していない人が推定数十万人いるとされる。日本で新しい制度をつくるなら、「申請主義」の壁をどう越えるかが最大の課題になる。介護に追われている人に「自分で調べて、自分で申請してください」と求めること自体が、すでに矛盾を抱えている。
小さな希望を、制度の形に
629万人。この数字は、日本で無償の介護を担う人たちの数だ。一人ひとりに名前があり、暮らしがあり、諦めた夢がある。
イギリスの戦略が示したのは、「あなたの介護には価値がある。だから社会が支える」というメッセージだ。それは決して大げさな話ではなく、「あなたも休んでいい」「あなたの健康も大切だ」「あなたの収入が減ることを、国は放置しない」という、ごく当たり前の約束にすぎない。
日本の介護保険制度は、要介護者を支える仕組みとしては世界的にも評価されている。しかし、その制度を支えている家族介護者自身が制度の外に立っているという矛盾を、いつまでも放置するわけにはいかない。
厚生労働省が今後、介護保険制度の次期改正に向けてどのような議論を進めるのか。ケアラー支援法の制定に向けた国会の動きはあるのか。そして何より、629万人の声が政策の場に届くのか。
制度は一日では変わらない。でも、「変わるべきだ」と思う人が一人増えるたびに、その日は近づく。
参照元(出典)
- Department of Health and Social Care – GOV.UK(gov.uk)
- 令和8年度 全国介護保険担当課長会議資料(mhlw.go.jp)
- 第30回 社会保障審議会「生活困窮者自立支援及び生活保護部会」(令和8年7月17日開催)(wam.go.jp)
- 第30回 社会保障審議会「生活困窮者自立支援及び生活保護部会」(資料)(mhlw.go.jp)
執筆者プロフィール

介護や高齢者問題に関する執筆を多数担当。介護に携わる家族や支援者の視点を大切にしながら、現場で役立つ情報をわかりやすく発信している。